後継者候補が次々と消えていった
後継者に悩んでいた豊臣兄弟は共に、次々と養子をとった。だが一部を除き、ほとんどが夭逝してしまう。その辺りの経緯を、まず秀長からみていきたい。
[千丸]
丹羽長秀の三男。前述の与一郎死去後、長秀からもらい受けた。ところが、秀吉・秀長が、羽柴の血を引いた者を後継にしたいと思い直したのか、改めて秀長の家臣だった藤堂高虎の養子に出してしまう。その結果、千丸は名を「藤堂高吉」と改めた。
高吉は長寿で、最終的には伊賀名張(三重県名張市)に領地を与えられた。しかし高虎の実子・高次に疎まれたあげく、高虎の葬儀への出席を拒否されたり、晩年は冷遇されたりなど、紆余曲折の運命をたどった。
[豊臣秀保]
高吉に代わって白羽の矢を立てられたのが、秀吉・秀長の長姉・日秀尼(とも)の三男だった御虎。秀長が死去(天正19/1591年)する直前に養子縁組したとされる。これが豊臣秀保である。
だが、それから4年後、弱冠17歳で夭逝してしまう。秀保の死によって、秀長の羽柴大和家は断絶する。
秀吉が秀長の家を存続させなかった理由はわからない。ただし、この時点ですでに「拾」(のちの秀頼)が生まれていたことを考えると、秀吉の思惑が透けて見える。
秀吉に翻弄された養子たち
次に秀吉の養子たちに話を進めよう。
秀吉は結城秀康(徳川家康の非嫡子)や宇喜多秀家、また姉・ともの長男でのちの関白・秀次、同次男・小吉秀勝も養子にしていたという説もあるが、「養子としての実態はない」という(黒田)。
したがってここでは羽柴秀勝(上記の小吉秀勝とは別人)と、羽柴秀俊の2人を紹介したい。
[羽柴秀勝]
織田信長の四男または五男と言われている人物。秀吉が北近江の長浜(滋賀県長浜市)を治めていた天正9(1581)年には、秀吉の補佐役としてそこそこの地位にあったと見られている。
天正10(1582)年の本能寺の変で信長が横死すると、秀吉によって織田の後継者に推されると見られていたが、秀吉は幼児の方が取り込みやすいと考えたのか、まだ幼い三法師を世継ぎに押し込んだ。その結果、秀勝は賤ヶ岳や小牧・長久手などの戦いに秀吉軍の武将として参陣し、その間には毛利輝元の養女と結婚し、18歳で没した。
[羽柴秀俊]
寧々の兄の子。のちの小早川秀秋である。
幼年期の秀俊は利発だったらしく、秀吉は一時、羽柴の後継と目していたという。実際、天正16(1588)年に諸大名が提出した、豊臣に忠誠を示す起請文の宛名は秀俊だったという(黒田)。
豊臣政権内で重きを置かれていたが、秀吉と淀殿とのあいだに初の男児・鶴松が誕生すると、後継者から一門衆に格下げとなった。さらに鶴松死後に秀頼が生まれると、秀吉の命によって、毛利一族の小早川隆景の養子となる。


