信長が気づいた将軍家の限界
本圀寺(京都市山科区)は信長と共に上洛し、すでに将軍宣下を受けていた足利義昭が滞在していた寺院だった。一方の信長は一部の武将と軍勢を京に残して岐阜に帰還していた。信長不在の隙を突いて、三人衆は本圀寺を襲撃したのである。軍勢の総数は「1万余」だったという(軍記物『足利季世記』)。
迎え撃つ義昭を守る幕府軍の戦力は不明だが、三人衆の軍勢より劣っていたようである。また『信長公記』によると、明智光秀は義昭と一緒に本圀寺にいた。
翌6日、細川藤孝、和田惟政ら義昭の奉行衆や御供衆が援軍に駆けつけ、本圀寺の籠城軍と三好三人衆を挟撃し、撃退に成功した。援軍のなかには荒木村重がいた。
報せを聞いた信長が京に入ったのが1月10日。松永久秀も同日に上洛したという。
なお、この戦闘に豊臣兄弟の藤吉郎と小一郎が加わっていたかは、確認できていない。
三好三人衆が洛中まで侵攻してきた本圀寺の変は、京の防衛の脆弱さを露呈し、信長は失望したと考えられる。義昭の側近たちが京に入るや寺社や公家の領地を横領し始め、反発を買っていたことも発覚する。信長はそうした行為を禁じるよう、義昭に求めた。すでに2人の間には隙間風が吹き始めていた。
信長はこの後も義昭のために二条御所を造営したりするが、結局のところ将軍家を奉じ、丁重に遇したところで、義昭と側近たちをコントロールできない。信長は次第に、足利将軍を御する限界を感じ始める。
長慶は信長の“お手本”だった
これに対して三好政権時の三好長慶は、はなから足利将軍を信用せず、室町幕府に頼らない中央政権の確立を目指した。信長は長慶の前例の有効性に気づき、次第に義昭と距離を起き、天正元(1573)年には義昭を京から追放する――いわば長慶の手法を踏襲したと見ることもできる。
長慶が13代・義輝を駆逐したのは天文22(1553)年である。温故知新どころではない、わずか20年ほど前に起きた“事例”に信長は思いを馳せ、将軍など当てにしない方が天下に号令を下すには手っ取り早いと、見抜いたのかもしれない。
また、戦乱で荒れ果てた京の治安維持を目的に、信長は家臣の村井貞勝を置いた。これが京都所司代だ。長慶も京都所司代という名称こそなかったものの、同じ役割を持つ者を任命している。それが松永久秀だった。
もっともこの役職は室町幕府にもあり、侍所の長官を所司、その代理を所司代と呼んだ。それを長慶→信長が引き継いでいったところが興味深い。有効な政策なら、時代を超えて継承していく点も2人には共通している。
三好長慶と織田信長は、共に新しい時代に対応できる革新性を持ちつつ、良いと思えば旧体制のシステムも尊重する柔軟性にも長けていた。
歴史上の名将には、意外と類似点があるものだ。
参考文献
・天野忠幸『ミネルヴァ日本評伝選 三好長慶』(ミネルヴァ書房、2014年)
・天野忠幸『三好一族 戦国最初の「天下人」』(中央公論新社、2021年)


