松中久秀は本当に「梟雄」だったのか
次に松永久秀について見ていこう。
久秀の生誕は諸説あって詳しくはわからないが、前述の天野忠幸氏は摂津島上郡(大阪府高槻市)の土豪出身だろうと推測している。また、久秀以前の松永氏の活動は記録がないものの、長慶と出会ってからは早い段階に重用されていたという。
一般的には狡猾な梟雄(猛々しくて悪どい)といった印象の強い人物で、『常山紀談』(江戸中期に成立した戦国武将の逸話集)や宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、
・将軍(13代・義輝)を殺し、南都(奈良)の大仏殿を焼いた者
・はなはだ巧妙、老獪で、公方様(足利将軍)や三好殿は彼がいなくては何もなし得ない
などと記している。ただし、これらは正しいとはいえず、義輝の殺害に加担したのは久秀ではなく、息子・久通であり、現在では久秀は殺害計画を知っていながら黙認した程度ではなかったかといわれている。また、「大仏殿を焼いた」という件も、久秀と三好三人衆が敵対した際に戦闘の火が大仏殿に延焼したことを指しており、久秀が東大寺に放火して焼き討ちにしたとは言い切れないという。
久秀は、長慶の存命中は三好家に忠実であり、謀反を企んだ形跡もない。三好と敵対するのは、あくまで長慶没後の方針をめぐっての食い違いにあり、梟雄とまでいうのは根拠が薄いように思える。
後世が作り上げた「わかりやすい悪人」
また久秀は信長が上洛する前年(永禄10/1567)には、信長・足利義昭と同盟を結んでいたという。信長が上洛して慌てて支配下に入ったと思われがちだが、実は事前に支援することに合意していたわけだ。
それでも、やはり久秀には奸臣・謀反のイメージがある。これは天正5(1577)年に信長から離反したインパクトが強いからだろう。だが、それにしたって信長を裏切ったのは別所長治、荒木村重などもおり(のちには明智光秀も)、久秀ばかりではない。
久秀が「悪人」と呼ばれるのは、のちの時代の誇大表現ではないだろうか。海千山千の「老翁」(常山紀談はこう記している)という評判や、フロイスの証言、三好から織田政権に鞍替えして最期は信長に反して死んだ「寝返りの常習犯」という印象が、一人歩きしているように思えるのだ。
以上が三好一族と松永久秀の概要だ。そして「豊臣兄弟!」3月22日放送回では、三好三人衆が京の奪還を目指して攻め入ってくる永禄12(1569)年1月5日の本圀寺の変が描かれる。


