主君を見限り、京を掌握

天文18(1549)年、長慶は晴元を見限って兵を挙げた。結果は晴元の敗北。このとき晴元が、13代将軍・足利義輝と共に近江に逃れたため、将軍と幕府実力者が京に不在となった。そこで京に長慶が入り、実権を掌握する。

長慶は下剋上を果たしたと同時に、新政権「三好政権」を樹立するのである。

翌年(天文19/1550)には、晴元・義輝が京都奪還をもくろんで中尾城(京都市左京区)で長慶軍と対峙した。この戦いでは両軍が鉄砲で攻防を繰り広げたことが『言継卿記』などに記されているそうで、すでに鉄砲が常備されていたことをうかがわせる。

結果はまたしても晴元が負け、近江へ退却。その後、次第に義輝は自壊し、晴元も没落し最期は幽閉されて死去する。

長慶には京に住む志向はなく、前述の芥川城を拠点とした。また、長慶は逃亡した足利義輝を追撃しようとはしなかった。足利将軍の威光などあてにせず、自分の力で京を支配しようとしたのである。

のちに信長も15代将軍・足利義昭を追放しただけで討ち取らず、自ら天下に号令を下す道を選んだ。長慶を信長の先駆者とする理由はこうした点にある。

三好長慶(「英雄百人一首」より)高槻市立しろあと博物館蔵
三好長慶(「英雄百人一首」より)高槻市立しろあと博物館蔵(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

忠義を貫けなかった者たち

次に三好三人衆だが、メンバーは前述の通り三好長逸・三好政生、石成友通の3人。各人の役割は長逸が政務に通じた一族の長老、政生は細川晴元の旧家臣団の代表格、友通がのちに詳解する松永久秀と同じ新参の家臣の中心的存在だった。

なかでも石成友通は出自が一族ではないにもかかわらず、優れた行政手腕を発揮し奉行衆として取り立てられ、また戦においても一軍を任された。

『太平記英勇伝 岩成主税助左道』(石成友通)東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『太平記英勇伝 岩成主税助左道』(石成友通)東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典=東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

行政・戦い双方に長けた武将というと、信長政権下の明智光秀を彷彿とさせる。古くから仕えている旧臣・譜代の他からも積極的に人材を登用した点も、信長と似ている。

とはいえ、友通は三好から離反し、その後、足利義昭が反信長に転ずると追随するなど、態度を二転三転させ信長に討たれた。長逸と政生の最期は諸説あって詳細は不明だ。

いずれにせよ、三好三人衆は滅びの道をたどるのである。