終わりなき欲望のゲーム
『消費社会の神話と構造』の出版は1970年ですが、その指摘はSNSを使うことが当たり前になった現代でこそ、より大きな意味をもっているように思えます。なぜなら、消費の記号としての意味は、SNSを使うことで誰でもワンタップで何十倍・何百倍もの大きさに増幅させることができるからです。
SNS以前の時代と違い、購入した商品は今や一瞬で日本中・世界中の人に「見せびらかす」ことができます。
FacebookやX、インスタグラムを開いてみてください。そこにあるのは何でしょうか。料理の写真? 旅行の写真? 違います。そこにあるのは「充実した生活」という記号(イメージ)です。「幸せな家族」という記号です。「成功したキャリア」という記号なのです。
「今流行りの店」があれば人々はこぞって出かけて行きます。料理そのものを味わうより「その店に行ったという事実」を消費します。これはまさにヴェブレンが指摘した「見せびらかしの消費」であるとともに、マルクーゼのいう「偽の欲求」の典型例です。
「このレストランに行けばSNS映えする」という発想で店を選ぶ行為。写真をアップして他の人との生活の違いを強調し、承認欲求を満たそうとする行為。これらはボードリヤールが指摘した記号消費の極致です。
こうした記号消費には終わりがありません。流行という外部基準が移り変わる度に新たな消費が促され、常に「次」が必要になり、終わりなき欲望のゲームが続きます。私たちはせっせとSNSに投稿して「いいね」を集めて喜んでいるつもりが、実はそれによって〈消費〉という追手を自ら作り出し、それに追い回される生活をしているのです。
自分の欲求の真偽を見分ける方法
私たちがつい必要以上の商品を買ってしまうのは、その商品が単なるモノではなく「社会的地位」「理想の自己像」「他者からの承認」という記号としての意味をもっているからです。SNSから離れられないのは、そこが現代における最も効率的な「記号消費の場」だからです。
問題は、そのような記号の消費によって私たちが心からの満足を得ることが難しく、常に「次へ次へ」と急かされてしまうことです。このような状況では、私たちが何かを「ほしい」と思っても、それが本当に自分にとって必要な「真の欲求」なのか、他者によって作り出された「偽の欲求」なのかがわからなくなってしまいます。この「自分のほんとうの欲求がわからない」という引き裂かれた混乱状態が、消費という追手の正体なのではないでしょうか。
この追手から逃れるための第一歩は、何かを「ほしい」とか「したい」と思った心と少し距離を置き、「それは本当に自分の欲求か?」を自分自身に問いかけることです。普段買っているものやSNSに費やしている時間の5%でも10%でもこの区別によって削ぎ落とすことができたなら、小さな心の余白が現れてくることでしょう。



