大衆文化を作るのは大衆ではない
ここまで読んで、「でも」と思う方は多いかもしれません。「それの何が悪いの?」「消費って、そういうもんじゃないの?」と。しかし、そう単純な話でもないのです。
ヴェブレンの告発から20年あまりの時を経て、ドイツにフランクフルト学派と呼ばれる思想家たちのグループが誕生しました。フランクフルト学派は20世紀の消費社会の現実を前に、大衆文化や広告が人々を受動的にし批判的思考を奪う点を糾弾しました。
フランクフルト学派の旗手としては、テオドール・アドルノ(1903年-1969年)とマックス・ホルクハイマー(1895年-1973年)の名前を挙げることができるでしょう。この2人が共著として『啓蒙の弁証法』(1947年)を書いたのは、第2次世界大戦のさ中、ナチス・ドイツから亡命してアメリカにいた時期でした。彼らは、ヒトラーの全体主義がいかに大衆を熱狂させたかを目の当たりにし、同時に「自由の国」アメリカでも別の形で大衆が操作されていることに気づいたのです。
2人は「資本主義社会はファシズムよりもっと巧妙な方法で人々を支配している」といいます。
キーワードは「文化産業」。彼らは、映画やラジオなどのマスメディアによる大衆文化(=文化産業)が、人々の意識を操作するシステムとして機能していることを指摘しました。
ハリウッド映画を思い浮かべてください。お決まりのストーリー展開、予定調和のハッピーエンド。流行歌は似たようなメロディーと歌詞で次々と作られます。表面的にはジャンルや作品ごとの違いがあるように見えますが、その本質は似たりよったりです。
文化産業は「大衆のニーズに応えている」と主張し、消費者も自分の欲求に従って自発的に行動していると思い込んでいます。しかし実際には、産業がニーズそのものを作り出し、大衆から主体的に考える力を奪っているというのがアドルノとホルクハイマーの主張でした。
社会に蔓延する「偽の欲求」の正体
もう1人紹介しましょう。ヘルベルト・マルクーゼ(1898年-1979年)は1964年に『一次元的人間』を刊行し、豊かな消費社会がいかに人々の欲望や思想を画一化し、批判精神を麻痺させているかを論じました。ここでいう「一次元的」とは、自らの欲求や価値観を既成の枠組みの中でしか考えられなくなった状態です。
彼はこの本の中で、「真の欲求」と「偽の欲求」という区別を立てました。生存に不可欠な欲求や人間の解放に役立つ欲求が「真の欲求」であるのに対し、現代社会の大衆には社会的に植え付けられた「偽の欲求」が蔓延していると指摘したのです。彼はいいます。
われわれは真実の欲求と虚偽の欲求を区別することができよう。「虚偽の」欲求……を充たすことは、個人にとって非常に楽しいかもしれない。……広告にある通りに休養し、遊び、ふるまい、消費したい、また他人が愛し、憎むものを、自分も愛し、憎みたいといった広くみられる諸欲求は、たいていこの虚偽の欲求のカテゴリーにはいる。……こうした欲求の発達と充足は他律的である。
最後にある「他律的である」とは、偽の欲求を満たして喜ぶ私たちは、実は(国家や企業といった)大きな権力に操られているだけであるという指摘です。たとえそれにより一時的な満足感が得られても、それは人々に現状の問題を自覚させなくするための「偽りの満足」にすぎないということです。

