農園では怒鳴り合い、スキー場では大ケガ
指導役として関さんを待っていたのは、関農園3代目の祖父。関さん曰く、祖父は「世界一教えるのがヘタ」で、まだ若かった関さんは苛立ち、祖父と毎日怒鳴り合っていた。
当時の関さんにとって最優先事項はプロスノーボーダーとして自立することで、コメ作りは工事現場のアルバイトと変わらず、「生活のためにやらざるを得ない仕事」。だから、農作業中も、休憩中も、仕事が終わった後も、スノーボードで頭がいっぱいだった。
そこまで入れ込んだ甲斐あって、25歳頃には追い風が吹き始めていた。チームのDVDのなかで最後に登場するのは、その時点で最も評価の高いメンバーに決まっていた。その年、関さんがDVDのトリを飾る。関さんモデルのウェアとボードが発売されたのも、同時期だ。
ところが、シーズン初めに野沢温泉のスキー場で転倒し、右足の大腿骨を粉砕骨折してしまう。全治10カ月。ひと冬を棒に振りながらも、「来年には復活してみせる」と筋トレやイメージトレーニングに励んで迎えた次の冬、関さんは愕然とする。右足が思うように動かない。なにをしても、ケガをする前と同じ感覚には戻らない。DVDを撮影した時が100%だとしたら、50%程度の滑りしかできなかった。
「これはもう、スノーボードでプロとしてもっと上にいくのは難しいかもしれない……」
とことんやってトップを目指すのが、関さんの性格だ。「ひとりでいくら上手くなっても勝てない」とバスケから心が離れた時のように、人生を懸けたスノーボードへの情熱が急速に萎んだ。その大きな穴を埋めるように存在感を増していったのが、コメ作りだった。
コンクールで箸にも棒にも掛からない
祖父とケンカ三昧だった修業時代を経てひと通りの仕事をおぼえると、家業の主力を担っていた父親のコメ作りに興味を持った。自作した発酵有機肥料を使い、狭い範囲ながら無農薬栽培も始めていた。明らかに近隣の田んぼよりも手をかけていて、コメの味も際立っている。それだけに、手塩にかけたそのコメを農協に納めていることに疑問も感じた。農協に納めると、ほかの農家のコメとブレンドされて袋詰めされてしまうのだ。
就農してから5年も経つと、「うちはいいコメを作っている」というプライドを持つようになり、「それを知られていないのはもったいない」と思うようになった。スノーボードのケガから復帰した2011年のことだ。
その頃、コメのコンクールがあると知った。「これだけこだわって作ったうちのコメはどう評価されるだろう」という好奇心で応募した。「もしかしたら、いい評価を得られるかもしれない」という淡い期待はしかし、あっさりと打ち砕かれた。箸にも棒にも掛からなかったのだ。その悔しさが、胸の内に引っかかっていたのかもしれない。
ある日、東京でスノーボードの仕事の打ち合わせがあり、車で上京した。帰り道、関越自動車道を走っている時に、ふと思い出した。
「あ、今日はコンクールの決勝大会の日だ」
群馬県の川場村で開催されていたのは、「第13回 米・食味分析鑑定コンクール」。関さんは高速道路を途中で降りて、会場に向かった。初めて足を踏み入れたコンクール会場で、関さんは目を疑う。想像をはるかに超える広い会場は、3000人ほどの来場者で賑わっていた。そのなかでも、10人ほどの生産者の周りに人だかりができていた。
「なんだ、この世界は! あの人たち、スターじゃん! 超すげー!」


