「戦国の姫」といえばお市や細川ガラシャが知られている。だが、もう一人忘れてはならない姫がいる。13歳で武将に嫁ぎ、19歳で夫と共に壮絶な最期を遂げた。夫から「落ちのびよ」と説得されても、「あなたの後を追うのが世の習い」と言って翻意しなかった。江戸文化風俗研究家の小林明さんが“もう一人のお市”の埋もれた歴史を読み解く――。

19歳で勝頼と最期を迎えた

「黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき 思いにきゆる 露の玉の緒」

今の私の黒髪はまるで戦乱の世のように乱れ、あなたへの果てしない思いのなか、玉の緒(命)も露のように消えようとしています。

天正10(1582)年3月11日、甲斐国・田野たの(山梨県甲州市)で最期を迎えた、1人の女性の辞世と伝わる。

田野は武田氏滅亡の地・天目山てんもくざんの麓にある。つまりこの辞世で詠まれた「はてしなき思い」の相手は、天目山の戦いで織田信長の配下・滝川一益の軍勢に滅ぼされた、武田の当主・勝頼に他ならない。

そして句を詠んだのが、勝頼の正室「北条夫人」だ。このとき、まだ19歳。夫と共に自刃した生涯はあまりに短く、苛烈だった。法号は桂林院殿。

『古今名婦鏡』の武田勝頼の夫人(北条夫人)
『古今名婦鏡』の武田勝頼の夫人(北条夫人)(画像=安達吟光/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

北条夫人は北条氏康の娘で、氏康の後継者・氏政の妹にあたる。元亀2(1571)年、武田信玄の存命中、武田と北条に甲相同盟が締結された(正確には一度破綻した同盟の復活)。このときは両家のあいだに、婚姻までは成立しなかった。

弱る武田に嫁いだ13歳

やがて情勢は大きく動く。元亀4(1573)年に信玄が死去し、天正3(1575)年の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に大敗を喫するなど、武田は衰退局面に入った。

そこで勝頼は甲相同盟の強化に乗り出した。具体的には、勝頼は正室に先立たれていたため、北条の姫を継室(後妻)に迎えたいと要望したのである。氏政はこれをのみ、妹を勝頼に嫁がせた。この妹が、北条夫人だ。

夫人が輿入れしたのは、武田の滅亡を記した軍記物『甲乱記こうらんき』に「(死去した時点で勝頼に嫁いで)早や七年」とあるため、天正4(1576)年の13歳のときだ。一方、『小田原編年録』では天正5(1577)年の14歳とあり、1年のズレがある。

本稿では先に成立した『甲乱記』の天正4年説をとり、13歳で結婚、7年の歳月を勝頼と過ごしたのち、19歳の若さで運命を共にしたと記すことにする。なお、勝頼とのあいだに子はいない。

同時代の女性として引き合いに出されるのが、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で話題の「お市の方」だろう。浅井長政に嫁いでから、越前の北ノ庄城で柴田勝家と共に果てるまでが15〜16年。お市は二度にわたり、嫁ぎ先の滅亡を経験した。

戦国の姫として過酷な運命に翻弄された点において、お市と北条夫人はどこか響き合っている。