後世が代弁した、夫人の胸の内
ただし、丸島和洋氏によると、この願文は後世に創作されたものという説が有力だ。その理由は「 」の箇所。「木曾義昌がみずから人質となっていた母を殺害したも同然」とあるが、これは勝家が木曾を討伐に向かったものの敗北し(鳥居峠の戦い/2月16日)、新府城に戻るや、人質として留め置いていた木曾の母・娘・息子の3人を処刑したことを指している。
『甲斐国志』によると処刑日は3月1日。対して願文の日付は2月19日。辻褄が合わないのである。
したがってこの願文は、夫人の心情を後世に誰かが代弁したもの、と考えられる。凄まじいばかりの怒りに身を焼かれながら、しかし、どうすることもできない日々を過ごすしかなかった、夫人の胸中が表れている。
2月下旬、武田の一門衆・穴山梅雪が家康に寝返った。のちに、かねてから内応していたことが判明する。
3月2日、信濃伊那(長野県南部)の武田方の拠点・高遠城が陥落。
勝頼はここに至って抗戦を断念し、城を捨て、家臣の小山田信茂が守る岩殿城(山梨県大月市)を目指すことにした。このとき、北条夫人を小田原に送り返すことを打診したと『理慶尼記』にあるが、夫人は勝頼から離れなかった。
「落ちのびよ」と勝頼、拒む夫人
3月3日、勝頼は新府に火を放ち、岩殿城へ向かったが、その行程は惨憺たるものだった。以下は『甲乱記』に記された様子である。
勝頼は馬300、人足500を集めよと命じたが、1匹、1人たりとも参集せず、北条夫人が乗る輿を担ぐ者さえいない有様だった。仕方なく農耕馬に草で作った鞍を設置し、夫人に乗ってもらった。
夫人に従う女房たちは粗末な草鞋を履き、徒歩で歩いた。慣れない行軍に足が血まみれとなり、脱落者が続出した。逃亡兵も相次いだ。やっとのことでたどり着いた柏尾(甲州市勝沼町)で一行を出迎えたのが、前述の『理慶尼記』の著者、大善寺の尼僧・理慶尼だった。
柏尾を出た勝頼一行は3月10日、小山田信茂の裏切りを知る。小山田は岩殿城へ向かう峠を封鎖してしまい、退路を絶たれた勝頼たちは行き先を天目山に変更する。そして、その麓の田野で攻撃を受け、いよいよ自害を決意する。
それでも勝頼は北条夫人に、「小田原へ落ちよ、北条の姫なら手をかす者もいる」と説得した。
「一緒になって早や七年。あなたの後を追うのが世の習い。共に自害し、死出の山、三途の川も手に手を組んで渡り、のちの世まで契りを籠めることこそ私の本意」
夫人はそういって、翻意することはなかったという。

