365日スノーボードに明け暮れた

関さんがスノーボードに出会ったのは、15歳の時。プロスノーボーダーのチーム「スクローバー」が石打丸山スキー場とコラボしてスノーボード用のパークをプロデュースした際、メンバーの佇まいや颯爽と滑る姿を目の当たりにして、惚れ込んだ。

「めっちゃかっこよくて、俺もプロになりたいと思いました。それが中3の冬で、バスケ推薦で高校も決まっていたんですけどね。バスケはチームプレーが重要で、ひとりでは勝てないじゃないですか。スノーボードはひとりでできるし、かっこいいし、滑ってみたら面白い。スノーボードがしたいから、一番近い高校に通いたいと親に頼み込みました」

「もう入学金を払ったのに」と渋る両親を説得した関さんは、それから365日、スノーボードに明け暮れる。雪がある時期は毎日、日が暮れるまで滑る。帰宅したら、海外や国内のプロのDVDを何度も繰り返し観る。難しい技はコマ送りしながら確認した。雪がない時期は、学校が終わったらすぐにジムに行って筋トレをした。DVDも観続けた。

「この生活が楽しすぎて。たまに友だちの家にいったりしても、グタグタしていたら『この時間がもったいない』と思っていました」

ストイックな姿勢は、幼い頃からのものだった。小学生の頃、昆虫が大好きで一日中ひとりで昆虫採集しては、図鑑で調べる日々を過ごしていた。バスケを始めてからは、「NBAにいく!」と決めて、ビデオで毎日研究。その対象が、スノーボードになった。

「僕、勉強はできないんですけど、オタク気質なんで、好きになったら何時間でも没頭できるんですよ」

20歳でゼロからコメ作りを学ぶ

探求の甲斐あって、18歳の時、中学生時代に一目で惚れ込んだ「スクローバー」から声がかかり、チームに加入。高校卒業後に上京したのは、スノーボードメーカーのオフィスがある東京にいたほうがプロへの道が拓けると聞いたからだ。ちなみに、プロスノーボーダーとはどういう人を指すのだろうか?

「最初は、スポンサーがついてボードやウェアなどを提供してもらうところから始まります。そこで活躍して、契約金をもらえるようになったらプロですね。さらに、自分モデルのウェアやボードを出して売れるようになると契約金も上がります。チームとしては、自分たちのDVDを出して販売するのがメインですね」

関さんは東京の建築現場で肉体労働をしながら、プロを目指した。日給は1万円弱。決して楽な生活ではなかったが、その収入で生活費をまかない、残りはすべて活動資金に回した。その頃、帰省中に知り合った女性と恋に落ち、ほどなくして子どもを授かる。結婚を決めた関さんは、東京から引き上げることにした。

「家賃や生活費を節約するために両親に頼んで実家に戻り、冬はスノーボードをして、春から秋は父のもとで農業をすることにしました。それまで草刈りぐらいしか手伝ったことがなかったけど、東京では朝は早くて帰りは満員電車だし、夏は35度を超えるなかコンクリートに囲まれた現場で粉塵を浴びながら働く日々でした。農業も暑さや肉体労働の厳しさはありますが、周囲は一面の緑で風が抜け、空が広い。東京と比べたら、農業をするほうがいいなと思いましたね」

2005年、20歳で帰郷してゼロからコメ作りを学び始めた。

広大な関農園
筆者撮影
約20ヘクタール(約140枚)、東京ドーム5個分の田んぼを管理している