私たちの人生は、日々の小さな選択の積み重ね
今日、何を食べるか。誰に会うか。どの本を読むか。どんなメッセージを発信するか。一見些細に見えるこれらの選択が、長い時間を経て「私という人間の軌跡」となる。つまり、私たちの人生は、日々の小さな選択の積み重ねでできている。
ということは、人生において決定的な差を生むのは、選択にあたっての「基準」を持っているか否か。さらに掘り下げれば、その基準をきちんと「言語化」して残しているかどうかということになる。
決断の拠り所となる言葉を持たないなら、人生や仕事は「自ら意図して選んだ人生」ではなく、気づかぬうちに「周囲に流され、誰かに歩かされている人生」となっている可能性が高い。
具体的には、「これまでもそうしてきた」「周りの人もやっている」といった、理由にならぬ理由で動かされることになる。その生き方は短期的には問題ないように見えても、長期的に向かう方向感はバラバラでまとまりがなくなる。
この状態をたとえると、海図も羅針盤も持たずに大海に漕ぎ出した船のようなもの。行き着く先は、良くてたまたま流れ着いた無人島の浜辺、悪ければ難破し、海の藻屑。それが嫌なら、自らに問うべきはただ一つ。
「流されるままの人生でいいのか、それとも自ら行き先を選ぶのか」
決断の基準を言語化することは、この問いに「私は自ら行き先を選ぶ側である」と宣言する行為に等しい。
自分の言葉に「翻訳」する
ところで私が自分の言動を修正できたのは、意思決定の基準となる言葉が明示的に言語化されていたからである。
ドラッカーが「貢献する」という言葉を用いることによって、誰でも分かる状態にしてくれていなかったら、私は行動につなげることができなかった。
あるいは、仕事と作業の違いを言語化していなければ、未来につながるような行動を積み重ねることもできなかっただろう。
人は、感覚や感情だけでは動けない。
「成功したい」「成果を出したい」といった漠然とした願望は、行動変容につながるエネルギーにはならない。
自身の行動、さらには人生全体を望ましい方向に変えるには、明確に言葉として示された、高い納得性と説得力を持つ「設計図」や「命令」が必要となる。そして、それこそが意思決定の基準。
大きくは「自分がどうありたいか」という目標と、「そこに近づくには何をどうすればよいか」という具体的アプローチ。それらを明確に言葉にする力が求められてくる。
私は自分の立てた目標を叶えるために、お金や時間、人間関係といった様々なサブシステムを言葉を通して、一つひとつ整えていった。
そうして、気づけばとても居心地の良い状態、それは決して華美な生活をするとかではないけれども、経済的にも精神的にも、穏やかで心にゆとりのある生活を過ごせるようになった。
ここまで書いてきて改めて思うのが、あらゆることは言葉ありきであったということ。
そう、すべては言葉からはじまるのだ。


