累積赤字額を誰も知らない
少し先回りして、後で知った事実をここに書く。黒岩は新社長に就任すると、ミスミの多角化事業チームの赤字が、10年間を遡って合計いくらになるかを調べさせた。
その結果は約50億円だった。それ以外に、有名なコンサルタント会社を本社費用で次々に雇って10億円以上使ったと聞いたし、本社が負担した経費や間接部門の経費を加えると、ミスミがこの多角化新事業の騒ぎで使った赤字の総額は約10年間で70億円に達していることが見えた。多角化新事業を始めた1994年のミスミの年度利益はわずか20億円台だった。10年近く機械工業部品事業の利益性に甘え続け、赤字でも事業の継続を許され続け、事業チームの数が増えるに従って新事業全体の赤字額を膨らませてきた。
黒岩が驚いたのは、創業社長も執行役員も、誰ひとりとしてこの累積赤字額を知らなかったことだ《感知項15》。黒岩が社内に入り、集計作業をさせて初めて判明したことだった。
黒岩の頭の中に、そっくりの「いつか見た景色」があった。コマツのアスター事業で7年連続赤字事業の再生を始めた時、累積赤字額220億円の数字を、アスター事業の役員は誰も知らなかった。一部上場企業ミスミの社長も役員も、危機感が足りないことでは同じだった。このサラリーマン意識のままで、ミスミの企業体質と実行戦略を変えていくことができるのか。黒岩には暗澹となる事実だった。
多角化事業を支える本業を「ダサイ」とする風潮の危うさ
ここまで来て、黒岩にはもっと重大な問題が見えはじめていた。過去の赤字ではなく、今も深刻な逸失利益が出ている可能性があることに気づいた《感知項16》。ある社員が言った。
「社内で多角化事業がブームになると、新規事業が社内で陽の当たる場所で、本業の機械工業部品事業はダサイと見られるようになってきました」
多角化新事業は、機械工業部品事業の生み出す利益に、おんぶに抱っこで生き延びているのに、その主力事業で働く人々に感謝するどころか、彼らを古臭いと軽く見る雰囲気が出てきたらしい。
血の気の多い社員は、社内で脚光を浴びている多角化新事業に移り、機械工業部品事業の人員は減っていった。
機械工業部品事業の低下気味の利益率を維持するため、減った人員の補充は抑制された。機械工業部品事業は分野毎に1200頁にも及ぶ部品カタログを発刊し、それが戦いの武器だ。ところが、分野によってその発刊を一回飛ばすことも行われた。カタログ発刊は発送費用を含めれば数億円にのぼる。その経費を節減して事業の利益率を維持することが目的だったらしい。社長も幹部もミスミの機械工業部品事業は強いから、崩れることはないと思い込んでいたのだろう。
ミスミの誇るべき攻撃的カルチャーだった事業組織が、やがて元気を失い、いまや受け身の、守りの組織に変わってしまったらしい。
多角化新事業の騒ぎが10年近く続き、本業の組織に否定的影響を及ぼしていた。多角化新事業のこれまでの赤字だけが問題ではなく、本業に伝染している影響は現在進行形なのだ。
