本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた後、織田家はどうなったのか。2代で途絶えた豊臣家とは対照的な織田一族の変遷を、江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。

乗っ取られても途絶えなかった織田の血

『豊臣兄弟!』で本能寺の変(天正10/1582)が描かれるのは、予想では7月くらいではないかと思う。織田信長は明智光秀に討たれ、ここで姿を消す。

『本能寺焼討之図』(部分)。一番右、障子から顔を出しているのが信長/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典=東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)
『本能寺焼討之図』(部分)。一番右、障子から顔を出しているのが信長/東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典=東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

本能寺の変では信長の嫡男・信忠のぶただも光秀に攻められ、二条新御所で自刃して果てた。

ただし、信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信ひでのぶ)は健在であり、織田嫡流の血統が途絶えたわけではない。通説では、この三法師が織田家の後継者を決める清洲会議で羽柴秀吉に擁立されたことになっているが、最新の研究では、実際は信長・信忠の存命中から三法師が家督相続者であることは決定していたともいう。

いずれにせよ後継者は三法師であり、まだ幼いゆえに信長の次男・信雄のぶかつと三男・信孝のぶたか、つまり三法師の叔父たちが後見人となり、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が補佐する体制となった。

だが、結論をいえばこの体制は暫定的な措置に過ぎなかった。翌年の賤ヶ岳の戦いで勝家と信長三男・信孝が秀吉に滅ぼされると、三法師は秀吉の支配下に置かれた。一応、織田宗家当主としての地位を保ってはいたが、秀吉に「ひさしを貸して母屋を取られた」も同然で、織田家は実質的に秀吉に乗っ取られた。三法師はその後、秀信と名を改め慶長10(1605)年、高野山で没したと伝わる。子はいなかったので断絶である。

では、織田家はその後どうなったのか? 実は信長の長子直系が途絶えただけで、幕末まで大名として存続している。

茶人として徳川と豊臣を渡り歩いた

秀吉・秀頼の2代で滅亡し、わずかに秀吉の姉・日秀尼にっしゅうにの血統だけが後世につながった豊臣とは違い、織田はしぶとく生き残った。豊臣は時代の徒花あだばなであり、織田は近世まで足跡を残した名門だったといえるのである。

【図表】織田氏略系図
信長の血脈をつなぎ大名として存続したのは、弟・有楽斎と次男・信雄の系統だ。(プレジデントオンライン編集部作成)

掲載した略系図が、大名として存続したその後の織田である。なお似たような名前が多く紛らわしいため、この記事で扱う主要人物には1〜8まで番号を付けている(※編集部注:外部配信先では図表が表示されない場合があります。その際はPRESIDENT Online内でご確認ください)

【1.織田長益ながます有楽斎うらくさい)】

信長の弟。兄の没後は秀吉の御伽衆おとぎしゅう(博学さを活かして主君の話し相手をする役)となった。一流の茶人として「有楽流」という茶道の流派をたて、京都・建仁寺の塔頭・正伝院(現在の正伝永源院)に庵を興したことでも著名だ。

武将としては慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に属し、戦後は大和国(奈良県)に3万石を賜りつつ、関ヶ原後も豊臣家を補佐した。

慶長19(1614)年の大坂冬の陣では大坂城に籠城したが、もとより和平を推進していた穏健派だったことから、徳川家康とも独自の交渉ルートを持っていたと考えられ、翌年夏の陣に向けて再戦の機運が高まると、密かに大坂城を脱したという。元和7年(1621)没。