御家騒動を乗り越え、京を守る
【7.織田高長】
最後に取り上げるのが、信雄の血を後世につないだもう1人の息子、五男・高長だ。この人は父の信雄の領地のうち、大和国宇陀松山(奈良県宇陀市)3万石を相続した。
ところが元禄7(1694)年、高長の子孫たちが家督をめぐって御家騒動を起こした。当時の幕藩体制において、御家騒動は御法度である。
名門・織田の血統ということから御家取り潰しは避けられたものの、石高は2万石に減らされ、丹波国柏原藩へと減移された。柏原藩は前述の信長の弟・信包が立て、わずか3代で無嗣断絶した藩である。
柏原藩の藩政は厳しかったが、8代藩主・信敬(のぶのりと読む説もある)が倹約を旨とする改革を行い、9代藩主・信民が藩校を設立して藩士の教育に力を入れるなどして存続をはかった。
幕末期は早くから尊皇攘夷に共鳴し、大政奉還後の京都守備などを担った。最後の藩主・信親は明治維新後、柏原藩知事に就任している。
野望を持たず、目立たず、矜持は持って生きよ
こうして見ると、信長という英傑の血を引きながらも、一族では地味な存在だった人物(有楽斎)や、または立場が二転三転して苦労した武将(信雄)の末裔が、織田の家を維持したことがうかがえる。
歴史研究家の河合敦は江戸時代の藩の数を、「江戸初期から後期に向かって緩やかに増加していくが、おおむね260〜280藩で推移していった。ただ、無嗣断絶や不始末などで改易された藩を合わせると、およそ500藩程度になるだろう」という。約200以上の藩が消滅していったわけで、生き残るのは並大抵ではなかったといって良い。
信長の末裔の大名たちは、いずれも藩庁は「城」ではなく「陣屋」の小藩だった。数十万石を有する大藩でも財政難で四苦八苦していたのだから、小藩の経営は試練の連続だったろう。
織田の子孫は、そうしたなかを生き抜いた。正式な文献史料はないため想像に過ぎないが、先祖・信長のように野望を持たず、目立たず、しかし織田の矜持は持って生きよといった処世術が、極秘に家訓として伝わっていた可能性すら思わせる。
「家」を末代に残すとは、歴代の主と家老たちが地道に経験を積み重ねた結果なのかもしれない。
参考文献
・『江戸三百藩大全』(廣済堂出版、2015年)
・『サライの江戸 江戸三百藩大名列伝』(小学館、2018年)
・『江戸の500藩全解剖』河合敦(朝日新書、2022年)


