信長の血統――プライドが災いした波乱の生涯

【5.織田信雄のぶかつ

信長の主要な子どもは長男・信忠、・次男・信雄、三男・信孝が知られているが、この内、後々まで存続したのは信雄の子孫である。

常真入道。常真とは信雄の出家後の法号
常真入道。常真とは信雄の出家後の法号/栗原信充 [画]『肖像集』2,写,[江戸後期]. 国立国会図書館デジタルコレクション(参照:2026年2月12日)

信雄の生涯は紆余曲折があった。清洲会議で三法師の後見となったのは前述したが、その直後に尾張・伊賀・南伊勢に約100万石を知行し、立場は安泰と思われた。

しかし、徳川家康と結託して天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いを起こして秀吉に反し、また小田原征伐後の所領配置において家康の旧領(三河・遠江)への移封を命じられると、信長の息子として尾張にこだわりがあったのか、これを拒否。秀吉から怒りをかって追放されている。

その後、家康が秀吉との間を仲介してくれたため御伽衆に就くものの、秀吉没後は関ヶ原で東西どちらに与するか曖昧だったせいか失脚。そして大坂の陣では今度はまた徳川に与するといった具合であり、プライドが高かったのか、クセの強い一面が読み取れる。

ともあれ最終的には家康の支配下に収まり、大坂の陣後は大和国と、飛地とびち(地理的に分離した領地)として上野国(群馬県)に、合わせて5万石を与えられ、江戸幕府から相応に遇せられる存在となった。

失脚、降伏、没収も耐えしのぐ

【6.織田信良のぶよし、8.織田信浮のぶちか

信雄は何人かの男子をもうけたが、そのうちの2人が後世に血をつなげた。1人が四男の信良である。前述の通り父の信雄が起伏に富んだ生涯を送った関係で、信良も少年期は苦労した形跡がうかがえる。例えば、信雄が秀吉から追放されていた天正18〜19年(1590〜1591)頃、行き場をなくして一時的に細川忠興のもとに身を寄せていたともいわれる。

苦労を重ねたからこそ、のちに粘り強く生きたともいえよう。元和3(1617)年以降、父が所領していた上野国の甘楽郡かんらぐん(群馬県下仁田町・甘楽町など)2万石を分与され、小幡おばた藩を立藩し、藩祖となった。

信良の系統は明和3(1766)年、7代藩主・信邦のぶくにが失脚し、幕府から強制的に隠居させられてしまう。苦労して藩を興したのを、子孫が台なしにしてしまったわけだ。

だが代わりに弟の信浮が家督を継承し、小幡藩から出羽国高畠(山形県東置賜郡高畠町)への移封を命じられ、高畠藩を立てた。藩庁は陣屋だった。天明の大飢饉(1782〜1788)などによって、財政はつねに厳しかった。

領地が現在の山形県天童てんどうを中心としていたため、文政11(1828)に陣屋を移転。以降、天童藩と呼ばれた。戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加し、新政府軍の攻撃にさらされ降伏する。所領も没収された。

しかし明治時代に入ると、藩知事は天童藩から出た。名門・織田の権威は失われてはいなかった。