城なき一万石の小藩
【2.織田長政】
有楽斎の長男・長孝は関ヶ原の戦いの軍功を認められて美濃国(岐阜県)に野村藩を立藩したが、わずか2代で子が絶え、無嗣改易(後継がいないため取り潰される)となった。次男は父と不仲で元和6(1620)年に死去し、三男は出家したとも、還俗したともいわれるが、その生涯はよくわからない。
四男の長政は父・有楽斎から大和国に1万石を分与され、これが戒重藩(奈良県桜井市)となる。藩庁は陣屋だった。陣屋とは城を持たない大名の屋敷で、つまり規模の小さい藩だった。
寛保2(1742)年に陣屋を芝村(同じく桜井市)に移転したことから、以降、芝村藩と呼ばれ幕末まで存続。11代藩主・長易は、戊辰戦争では小大名ゆえに幕府・新政府のどちらに味方するか迷ったようだが、最終的には新政府軍に与し、明治2(1869)年に藩知事に任命された。
明治4(1871)年の廃藩置県に伴い免職となったが、その後、子爵に列している。
大和と丹波に根を下ろした
【3.織田尚長】
有楽斎の五男。有楽斎の章で前述した通り慶長19(1614)年当時、父の有楽斎が豊臣に与していたため、大坂冬の陣が終わると和平交渉の証しとして徳川に人質に出されている。だが、このように有楽斎と家康がつながっていたことが、尚長が命脈を保つ鍵となる。
大坂夏の陣の戦後は、兄・長政と同じく父から大和国に1万石を分与され、柳本藩(奈良県天理市)の藩祖となった。
柳本藩は幕末維新まで13代の藩主を輩出したが、4代・秀親が宝永6(1709)年に殺害されたり、享和2(1802)年には重税に反対した農民が一揆を起こしたりと、改易の危機が何度かあった。そのたびにしたたかに延命し、最後の藩主・信及は維新後、柳本藩知事となっている。
【4.織田信包】
信長の弟。信長の伝記である『信長公記』では、信包は信長次男・信雄と、三男・信孝の間に列していると記されている。その通りだとしたら、織田一門のなかでも序列は上位にあったと考えられる。
理由は不明だが、信長の兄弟でも別格の地位であった可能性があるわけだ。信包の子孫が存続したのは、記録には残らない何らかの功績を評価されてのことだったかもしれない。
兄の死後は秀吉に仕え、天正5(1577)年の雑賀衆攻め、いわゆる紀州征伐などに活躍し、伊勢の安濃津(三重県津市)に15万石を与えられた。しかし、天正18(1590)年の小田原征伐で不手際があり、秀吉の不評をかって改易。
のちに許されて御伽衆となり、慶長3年に丹波国の柏原(兵庫県丹波市)に3万6000石を与えられ、柏原藩を興した。ただし同藩は3代で無嗣断絶。慶安3〜元禄8年(1650〜1695)まで天領(江戸幕府の直轄地)となり、その後、信長次男の信雄(数字5)の子孫に継承される。

