「敵側へ撤退」が合理的だったか

想定される義元の撤退ルート、もうひとつは西方だ。改めて両軍の位置関係を確認すると、一見これは無謀に思える。

今川軍は東から、織田軍は西から進軍してきている。西へ向かうということは、イコール敵軍の側へ突っ込むのと同じ。「関ヶ原での島津の退き口じゃあるまいし」と、歴史好きなら思うかもしれない。

だが、おけはざま山から西には複数の城が密集しており、織田方の城が多いが、その中のひとつ、大高城は最重要拠点で、決戦前日の18日、松平元康(徳川家康)隊が先行し、兵糧を運び込むことに成功している。おけはざま山での織田軍からの攻撃がなければ、おそらく義元率いる大軍は大高城のある西を目指していたはず。そう考えると、意外と西への選択は合理的に思えてくる。

さて、最初に挙げた2つの桶狭間古戦場跡、もうひとつがおけはざま山の西麓の「桶狭間古戦場公園」だ。

古戦場公園の庭園は桶狭間の合戦ジオラマの体になっていて面白い。方形の石は各城で、説明板もつく。写真奥に見えるカーブが「おけはざま山」
撮影=今泉慎一(風来堂)
古戦場公園の庭園は桶狭間の合戦ジオラマの体になっていて面白い。方形の石は各城で、説明板もつく。写真奥に見えるカーブが「おけはざま山」

この一帯も今では住宅街と化しているが、かつては「田楽坪」と呼ばれた水田地帯。公園の東側にはかつて川も流れていた。山から駆け降りてきて、足元のおぼつかない場所で追っ手に追いつかれ、首を獲られる。豊明の「桶狭間古戦場 伝説地」同様、いかにもなシーンが目に浮かぶが――。

防衛構造も兵糧もある大高城

西ルートを取ったと仮定し、義元が目指したと思われる大高城(図表1の④愛知県名古屋市緑区大高町城山)は、古戦場から約3~4km。沓掛城までの距離とほぼ同じだ。こちらも後世の改変で城域は一部失われているが、比較的構造がよくわかる状態で遺構が残っている。しかも、比高20mほどの小山に築かれた平山城。高低差を活かした構造は、ほぼ平地の沓掛城より守るに堅い立地だ。

本丸以下、5つの曲輪はいずれも丁寧に削平されており、それぞれが広大。現存する遺構部分だけでも、そこそこの軍勢が駐屯できそうに見える。しかも、その上に加えられた人工的な構造もなかなかのインパクトだ。

本丸側面の切岸。自然の断崖をさらに強固にするため削ったものと思われる
撮影=今泉慎一(風来堂)
本丸側面の切岸。自然の断崖をさらに強固にするため削ったものと思われる
二の丸。広大な削平地が広がり、三方が断崖に守られている
撮影=今泉慎一(風来堂)
二の丸。広大な削平地が広がり、三方が断崖に守られている
二の丸と三の丸間に架かる土橋
撮影=今泉慎一(風来堂)
二の丸と三の丸間に架かる土橋
土橋の両側には落差5m以上はあろうかという大堀切
撮影=今泉慎一(風来堂)
土橋の両側には落差5m以上はあろうかという大堀切
三の丸。縁部にはわずかに土塁の盛り上がり
撮影=今泉慎一(風来堂)
三の丸。縁部にはわずかに土塁の盛り上がりも
三の丸外側にも堀切と反り返るような見事な切岸
撮影=今泉慎一(風来堂)
三の丸外側にも堀切と反り返るような見事な切岸