彰子サロンのムードメイカーは和泉式部だったのか

和歌のやりとりをみる限り、和泉式部は彰子サロンの中核にどっしりと根をおろしているようにみえる。定子ていしサロンにおける清少納言に匹敵する彰子サロンのムードメイカーは和泉式部だったのかもしれないと思えてくる。それを紫式部はどうみていたのだろう。『和泉式部集』には清少納言や赤染衛門あかぞめえもんとのやりとりは載るのに、紫式部と交わした歌はみえない。

土佐光起筆 紫式部図(一部)(画像=石山寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

藤原道長の政界での立場は、その父兼家に比べて順風満帆だった。一度たりとも政界から排斥されることはなく、娘の中宮彰子は無事に次代の天皇を産んだし、女院として政界に長く君臨し続けた。

道長にとって最大の難関は、定子出生の第一皇子ではなく彰子出生の第二皇子を即位させるときではなかったか。とはいえ、すでに道隆も定子も亡きあとなのだから政敵がいるわけではない。しかし誰もがその判断に納得できる裏付けが必要だったろう。その意味で彰子サロンがどこよりも知的で華やいでいなければならなかった。

中宮定子のサロンに対抗して娘彰子のサロンを盛り立てる必要があり、一般に清少納言と紫式部とが対立していたかのように想像されるけれども、実際には定子サロンは彰子が入内して1年余りで定子の死によって閉じられてしまうのだった。その意味では、失われた定子サロンのはなやいだ楽しさの幻影にこそ対抗しなければならなかったのである。

定子サロンのはなやかさの幻影を象徴した清少納言

やしきに仕える女房たちというのは、主人が存命中であってもより条件のいいところへとくら替えすることもあれば、主人が亡くなって別の主人のもとへと出向くこともあった。長く生活をともにした主人が出家したのにともなって出家することはあっても、まったく思いがけず主人が亡くなったとなれば次の出仕先を探すのがふつうだろう。清少納言が定子亡き後、どうしていたのか気になるところだ。

現在の『源氏物語』の本文を整理した歌人の藤原定家ていかが加わって編纂へんさんされた『新古今和歌集』には紫式部、赤染衛門、和泉式部らの歌がいくつも採られている。『新古今和歌集』1580番の赤染衛門の歌は清少納言に送られているのである。

清少納言の父、元輔が住んでいた邸に清少納言が住んでいるころ、大雪となって垣根が倒壊し、中まで見通せるようになってしまったというので送った見舞いの歌。彰子サロンにいた赤染衛門は清少納言と交流があったわけである。

そもそも定子の父道隆と彰子の父道長は兄弟なのだし、ごく近いところにいたわけだから親交があったとしても不思議ない。