※本稿は、木村朗子『紫式部と男たち』(文春新書)の一部を再編集したものです。
通説では光源氏イコール藤原道長と思われているが……
光源氏のモデルには、紫式部に『源氏物語』を書かせたパトロンたる藤原道長の名もあがっている。たしかに道長の栄華は晩年の光源氏像を思わせる。しかし政界における道長の道程は終始、順風満帆だったのであり、左遷されて帰還したなどという後ろ暗い過去はなかった。左遷されたという意味では、むしろ道長に排斥されて大宰府に送られた中宮定子の兄、藤原伊周像が光源氏に近い。しかし伊周はのちに政界に復帰はするが華々しく成功することはなかった。
その意味で、光源氏像にもっとも似ている人生を送ったのは、道長ではなくて、道長の父、兼家のほうである。藤原兼家(929〜990)は、藤原師輔(908〜960)の三男で、同母兄に、長男伊尹(924〜972)、次男兼通(925〜977)がいる。同母姉に村上天皇に入内した中宮安子(927〜964)がおり、安子は冷泉天皇、為平親王、円融天皇の母となり、外祖父として父親の師輔は政界に君臨した。
道長の父・兼家は藤原摂関家の三男だが次男よりも出世
師輔が52歳で亡くなると、長男の伊尹が父を継ぎ、太政大臣にまでのぼった。ところが伊尹が49歳で亡くなると、その後継に兼家の名があがるのである。兄弟の順でいえば兼通が継ぐのが順当だが、兼家のほうが先に出世していたのである。
『大鏡』によると安和の変の起きた安和2(969)年の正月の昇進で兼家はすでに中納言にのぼっていたのに対し、兼通は宰相(参議)にすぎなかった。兼通の息子が源高明の娘に婿人りしていることもあって源高明排斥の煽りを食らっていたのだろうか。そもそも父親の師輔が源高明を娘の婿として迎えていたのだから兼通が高明と関係を持つのは不思議なことではなかった。師輔の死後に形勢が一変したのであろう。
ところが天禄2(972)年に摂政、太政大臣の伊尹が亡くなると兼通は起死回生の一手にでて、関白となり、ひとっとびに内大臣にのぼるのである。『大鏡』は兼通らの妹で円融大皇の母であった安子に「関白は年上の兄からつかせ、まちがってもそれを破るな」(関白をば、次第のままにせさせたまへ。ゆめゆめ違へさせたまふな)と書かせ、それをお守りのように首からかけて年来持ち歩いていたのだと書く。天延2(974)年、兼通は安子の遺言どおりに太政大臣にのぼり関白として実権を手にした。