兄の死後、中央政権に返り咲いた兼家が光源氏と重なる
さらに貞元2(977)年に兼通が病いに倒れ、関白と太政大臣を辞するにあたっては、兼家の勢力を封じるために右大将をとりあげ、治部卿に左遷している。『栄花物語』によると、貞元2年10月11日に兼通は、兼家から右大将をとりあげ済時を右大将とし、治部卿としたとある。
歴代の任官の記録をまとめた『公卿補任』によれば、『大鏡』には治部卿とあるが、兼家がそのとき任じられたのは民部卿だと記されている。地方のインフラ整備や徴悦の役目をする民部省より雅楽寮などが付属する治部省のほうがいかにも出世コースからははずれた閑職という感じがする。兼通は関白に、いとこの頼忠をつかせて兼家の出世の道を封じた。
ところが兼通の死後には、形勢が一変し、翌年貞元3(978)年の除目で、兼家は右大臣に任ぜられる。つまり兼家は、一度左遷されたのち、一気に右大臣となり、その後、太政大臣にまでのぼったのである。その意味で、光源氏が須磨に蟄居したのちに政界に返り咲いた姿によく似た経緯をたどっているといえる。
兼家の妻による『蜻蛉日記』が『源氏物語』を生んだ
文学史を振り返ってみたときに藤原兼家の妻のひとりが書いたとされる『蜻蛉日記』の存在はまことに大きい。おそらく『蜻蛉日記』が存在しなければ、『源氏物語』も生まれてはこなかっただろう。『蜻蛉日記』は物語の主題を一新させる力となったのである。それほどに影響力の強い『蜻蛉日記』の主要登場人物は兼家である。
『蜻蛉日記』は、藤原兼家の何番目かの妻の作である。はじめは熱心な求婚者だった兼家が、やがて関係に飽きたりなくなって、次々に新しい通いどころとなる女たちをみつけていくさまが、待つ女の側から恨みたっぷりに描かれている。作者は藤原道綱母と呼ばれていて、生年はおろか名前さえもわかっていないのだが、兼家との間に息子をもうけている。正妻腹の子ではない道綱にとっては『蜻蛉日記』があることで、兼家の嫡出子としての存在を世に知らしめることができた。
『蜻蛉日記』は、冒頭に、世にある恋愛物語などそらごとばかり、一流の貴公子と婚姻するというのはどういうものなのか、そのほんとうのところを書くと宣言してはじまる。