和泉式部は赤染衛門や清少納言と交流したが、紫式部とは…

『新古今和歌集』1820番には、赤染衛門が和泉式部と親しく交わした贈答歌も載る。これはなかなか面白くて、和泉式部のもとに元夫のたちばな道貞みちさだが通ってこなくなって、ほどなく敦道親王を通わせるようになったと聞いた赤染衛門が、それはあんまりだと思って送った歌。

木村朗子『紫式部と男たち』(文春新書)
木村朗子『紫式部と男たち』(文春新書)

別れた男をめぐって歌のやり取りをしているとは赤染衛門と和泉式部は遠慮なくものを言いあえる間柄で、相当に仲が良かったのだろう。

それとも和泉式部がわりと誰にでも親しげに接する人だったのだろうか。和泉式部は清少納言ともやりとりをしているのである。

そのとき、和泉式部はまだまだ若いとおだてて、時流から流れ去ろうとしている清少納言を引きとめているようにみえる。『紫式部日記』で「されど、和泉はけしからぬかたこそあれ」と言っていた、そのけしからんところというのは、もしかして和泉式部が清少納言を彰子サロンへ引き込もうとしていたことをさしていたのだろうか。いずれにしろ、清少納言は、赤染衛門とも和泉式部とも和歌のやりとりをしていたのであって彰子サロンにいてもおかしくない人だった。

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