『和泉式部日記』では道長の歌に直接に返歌したという記述も
『栄花物語』巻第15「うたがひ」の巻で道長は出家する。寛仁3(1019)年3月21日のことだった。出家した道長は四月の夏衣への衣更えに彰子をはじめ宮たちに衣装を送ってきた。彰子宛ての唐の衣に添えられた歌。
唐衣に着替えてください。私は出家者として春の色、華美な色を断つ身となっていますが、という歌。彰子の返歌。
このように世の中変わってしまった春に、どうして花の色を楽しめましょう、という歌である。道長が出家してしまうという世の寂寥感に花の色のあでやかさは似合わない。道長の歌を聞いて、いてもたってもいられなくなったのだろうか、和泉式部は彰子に歌をおくっている。
君が断った衣の色だと思うと、春の色の衣を脱ぎ替えるのは悲しい、という歌。つづいて大宮の宣旨とよばれる彰子付きの女房の次の返歌が続く。
道長が出家してしまってすっかり変わってしまった浮世/憂き世では夏衣の袖に涙がとまらないのだという歌。
和泉式部が彰子に歌を送り、それに対して彰子の女房が返歌してきたわけだが、『和泉式部続集』では彰子の歌が省かれて、道長の歌に和泉式部が直接に返歌したかたちになっている。実際に和泉式部の歌は、「君がたちける衣」と詠んでいて、「君」たる道長に応えているのである。
紫式部が道長をめぐって和泉式部と三角関係だった可能性
道長は紫式部と恋人関係にあったという説がある。それもまた召人の女房という意味になる。『紫式部日記』で、和泉式部をけしからん人だと言ったのは、道長との関係のことをさしていたということはないだろうか。
和泉式部と彰子との関係も良好で、和泉式部の娘、小式部内侍が亡くなったときには彰子は和泉式部に文を送ったらしい。和泉式部がそれに応えて彰子に送った歌。
そこにあると見ていた露がはかなく消えるように、はかなくなった人を何にたとえればよいのでしょう、という歌である。彰子の返歌。
袖においた露の形見として、互いに涙で袖をぬらすことになろうとは思いもしなかったという歌。かたみには「形見」とお互いにという意味の「かたみ」がかけられている。袖が濡れるのは泣いているからである。小式部内侍も女房出仕しており彰子もよく知る人だった。