哲学の「専門領域」から国民的教養へ

しかしそれは、19世紀イギリスにおいて、プラトンを哲学の「専門領域」から解放し、より広範な国民的教養の書として迎えられる動向の始まりともなった。19世紀半ばのプラトン研究の最も熱心な担い手は、功利主義哲学を標榜するJ・S・ミルのサークルの人たちで、その一人が銀行家のG・グロートであった。

彼のプラトン理解は(むしろいい意味での)アマチュアリズムに立っていたが、主著の『プラトン』(1865年)は、すぐれて同時代的な視点でプラトンの生涯と著作を丹念に祖述したもので、今日もなお参照するに価する記述が少なくない。

本書においてプラトンの「対話性」を重要視し、議論による真理の探求者という新たな側面を強調したことは、その後のプラトン研究を先取りするものとなっている。また『国家』についても、重要な哲学的・政治学的著作として、正当な位置づけと評価が与えられている。

さらに、プラトンに国民的哲学書としての決定的な地位を確定したのは、理想主義の哲学者B・ジョウエットによるきわめて平明な英訳と的確な解説であった(1871年)。彼は、倫理学を基盤とした政治哲学と国家論に、プラトン哲学の基本線を見いだした。それに連動して、はじめて『国家』がプラトンの主著と見なされるようになり、そこに論じられているさまざまな議論から、ヴィクトリア朝の政治・社会状況に対する示唆が引き出された。

その影響は当時の英国社会に大きく広がった。「哲人王」の理想は、当時の社会的エリートに公正無私と献身の理念を明示し、貴族的階層社会から教育と能力評価による平等社会への移行に正当化の根拠を与えた。最もユートピア的な主張と思われた男女平等論までも、女性の教育機会と社会進出を促す機縁となったのだった。

社会主義や独裁主義を支える理念に暗転

ついでに触れておけば、理想主義的『国家』像は、20世紀において一挙に暗転する。しかし、それもまた「生ける書」としての「古典」に負わされた宿命かもしれない。この「戦争と革命の時代」において、しばしばプラトンは政治の場に魔を呼び出す名と化した。

民族と国家が利害と理想をないまぜにしつつ世界的規模で争いを繰り返し、帝国主義支配や全体主義的動向が盛衰したこの間の様相は、そのままプラトンの時代のギリシア世界(特にスパルタ勢力とアテナイ勢力との対立抗争)に類同化され、東欧に実現した社会主義体制や西欧社会内部に現われた独裁主義国家を支える理念のうちに、プラトン哲学の反映を見ようとした人たちは少なくなかった。

古典に精通した政治学者E・バーカーの評言を借りれば、わずか20~30年の間に、プラトンは「いったんは左翼的革命家、社会主義の予言者とされたかと思うと、次には右翼的改革者、ファシズムの先駆者と見なされた」のだった。