全国的に城郭の入場者数が増えている。歴史評論家で城マニアの香原斗志さんは「戦後に復元された城には、観光のために過去の姿とは異なるデザインにしたものが多くある。そうした知識をもっておいたほうが、城めぐりはより楽しくなる」という――。
2015年5月10日、5年がかりの屋根・壁面の改修を終えた姫路城
2015年5月10日、5年がかりの屋根・壁面の改修を終えた姫路城(写真=Niko Kitsakis/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

往時の姿を見せる城は全国にわずかしかない

空前の「城ブーム」が続いている。コロナ禍で減少した観光客を呼び戻すための切り札として、多くの地域が城に期待をかけている。

天守が現存する城は、いまでは日本に以下の12しかない。

現存12天守:弘前城(青森県)、松本城(長野県)、丸岡城(福井県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、姫路城(兵庫県)、備中松山城(岡山県)、松江城(島根県)、丸亀城(香川県)、松山城(愛媛県)、宇和島城(愛媛県)、高知城(高知県)

それでも、日本全国には天守が建つ城が60ほどある。城、とりわけ天守は権力の象徴であるとともに、城下町のシンボルでもあった。だから、天守が建つ城を訪れるのは、歴史を知る旅の目的地としてうってつけのように思うのではないだろうか。

ところが、現存する12天守以外、すなわち近現代を迎えてから建てられた天守の多くは、残念ながら、元の姿とは異なって歴史の「理解」どころか「誤解」を助長しかねないシロモノが多いのである。

焼夷弾で焼き尽くされた「国宝」

江戸時代に存在していた天守の多くは1873(明治6)年、城を封建時代の遺物と断じた明治政府がいわゆる「廃城令」を出したのち、取り壊されるなどして姿を消した。それでも1945(昭和20)年を迎えるまでは、全国に20の天守が残っていた。

しかし、城は軍の駐屯地であったりして、米軍の空襲の標的になりやすかった。直接の標的にはならなくても、米軍は密集する市街地に焼夷弾攻撃を繰り返したので、火はあっという間に城にまで燃え広がった。

焼夷弾とは、火のついた油脂をまき散らして、あたり一面を焼き尽くすもので、米軍はこれを人口密度が高く木造家屋が密集する市街地に落とした。飛び出した油脂は90メートルも飛んだので、あっという間に火の海に囲まれてしまった。

まず5月14日に名古屋城天守が焼け落ちた。有名な金の鯱を避難させようとして組んであった足場に焼夷弾が引っかかり、そこから火が上がって城全体が火だるまになったという皮肉な話が伝わる。

続いて、6月29日に岡山城天守(岡山県)、7月9日に和歌山城天守(和歌山県)、7月29日に大垣城天守(岐阜県)、8月2日に水戸城御三階櫓(事実上の天守、茨城県)、終戦1週間前の8月8日に福山城天守(広島県)が焼失した。

史上最大級だった尾張徳川家の名古屋城天守、信長や秀吉の天守をモデルに関ヶ原合戦以前に建てられた岡山城と広島城の天守、天守の完成形といわれ、守りが弱い北側の壁面に鉄板が張られていた福山城天守……。旧国宝で、残っていれば間違いなくいま国宝に指定されていた日本の至宝だった。

ちなみに、広島城天守(広島県)は焼けたのではなく、8月6日に落とされた原爆の爆風で、一瞬にして倒壊した。

戦争で失われたのはこれら7つで、終戦時には13の天守が残っていた。

その後も1949(昭和24)年未明、役場の当直室からの失火が原因で松前城(北海道)が焼け落ち、残るのは12になってしまったのだ。