人々を誤解の中に迷い込ませる危険な思想家
たとえば、K・R・ポッパーの『開かれた社会とその敵たち』は、日本でも広く読まれたプラトン批判書であるが、そこには「哲人王」が直接的にレーニンやヒトラーに重ね合わされている。
むろん、彼らのプラトン「解釈」に疑義を呈することは容易い。と言う以上に、あまりにも粗雑で明白な誤りを逐一ただすことに無益な労を要するのみで、プラトンの議論とかみ合わせて批判することなど、ほとんど不可能なありさまだと言わなければなるまい。
とはいえ、たとえばポッパーを読み直してみて驚かされるのは、いかに誤謬と歪曲に満ちあふれた仕方ではあれ、プラトンの思想が現代においてもなおあれほどに激しい言葉で語ることを促すだけの、リアルな触発力を持ちえているということである。ある意味で、(たとえば)ポッパーはあやまつことなくそれを感知していたのであり、きわめて鋭敏にプラトンに反応していたとも言えよう。
『国家』に展開されているようなラディカルな挑発を、誤読に陥ることなく的確に受け止め、無数の逆説とアイロニーを通じて語られた真意を剔出していくことは、容易ではあるまい。それに共鳴するにせよ否定の立場をとるにせよ、誤解の中に迷い込むおそれに変わりはないのである。その意味では、たしかにプラトンは危険な思想家である。
古典を読むことは、「いま」を読むこと
ここでこれ以上プラトン論には立ち入らないでおこう。当面強調しておきたかったのは、古典とはそれぞれの時代と場所において、まったく異なった相貌を現わし、まったく異なった作品として各時代の状況を大きく揺り動かす力を示してきたものである、ということだった。
繰り返しておくならば、むしろそうした時代ごとの多様な読みに応答する多面的な解釈の可能性を内にはらみつつ、新たな思想の創出を促す無限の触発性と挑発力においてこそ、それはその地位をたえず更新しつづけていくのである。
やや一面的に強調して言えば、「いま」を生きるわれわれが、われわれ自身の発する問いを最も効果的に深化させる場として古典に対峙していくこと、そうして古典の形骸化を排除し、「いま」の内に賦活せしめる営みを持続することが、真の古典理解を切り開く道であろう。
たえず古典を挑発し、古典から新たな挑発力を喚起することに努めなければならない。古典を読むことは、すなわち「いま」を読むことである。