※本稿は、内山勝利『変貌するギリシア哲学』(岩波書店)の一部を再編集したものです。
19世紀まで埋もれていたミロのヴィーナス像
ギリシア彫刻の美しさを思い浮かべてみよう。たとえばミロのヴィーナスでもいい。むろんあの女神像を古代ギリシア人も美しいと思ったに違いない。そして、現代のわれわれもそれに感嘆する。長い時間をへて今日によみがえったその美しさは、しばしば「永遠の美」と言われ、「不朽の美」と称賛される。
たしかに、それは時をへだてた多くの人びとに、同じように美の規範としての感動を与える。さしあたりその意味で、それを美における「古典」と言うこともできよう。しかし、もう少し考えてみたい。実際には、この彫像も19世紀に発掘されるまで長くうち捨てられ、埋もれてきたのである。
ギリシア人にとっては神の崇高さを具現していた女神像が、後の歴史の中では、むしろ神性に反する涜神的なイコンとして排斥されてきた。そして再発見された近代においてそこに見いだされたのは、古代ギリシア人の美意識にはおよそありえなかった「藝術美」の理想だった(この理念はようやくカントに始まる)。
古代ギリシア人と現代人の「美しい」は同じか
その場合、同じ一つの彫像を美しいものとして見ているにせよ、古代ギリシア人とわれわれとは、ほんとうに「同じ」美しさを感じているのだろうか。それを「同じように」美しいと思っているのだろうか。むしろ、時代も場所も大きく異なった世界にあって、両者は全く異なった美的経験と美的基準でものを見ていると考えたほうがいいだろう。とすれば、明らかに、それぞれが感受している美は異なっている、とするべきである。
おそらく、「それにもかかわらず」ミロのヴィーナスは、ギリシア人にも、現代のわれわれにも美しい彫像と見えるのである。まったく違った美意識と感覚のそれぞれに対して現われる美は、やはり別の美だと言わなければなるまい。
しかし、言い換えれば、ミロのヴィーナスはそれだけ別様な見方に応じて、それぞれに美を顕現させうるだけの重層性をその内に蔵しているのである。そして、「古典」とは、むしろそのようなあり方において位置づけられるべきではないか。