毒親とその子の介護

振り返れば、2020年3月頃に父親が肺炎になった時、深戸さんはそのことを医療関係者からの電話で知り、それ以降、両親の介護にフル回転した。当時、すでに母親は要介護状態だったが、さほど深刻には考えていなかったという。

※写真はイメージです(写真=iStock.com/Arundhati Sahu)

「今思うと、(2020年4月に)肺炎を起こした父が、もし、(コロナ禍であっても)すんなり救急搬送先が見つかり病院に入院できたとしても、その後、私はやはり介護をせざるを得なかったと思います。父が高熱を出した際、訪問看護師さんから、『お父様が家事をされていたので、お母様の世話をする人がいません。息子さん、何とか来られませんか?』と言われ、実家に泊まることになっていなかったら、実家の家計が破綻していることに気づくのが遅れ、さらに大変な状況になっていたでしょう。(実家で本格的に両親の介護を始めるのは)タイミング的にギリギリか、少し遅かったかくらいに感じています」

深戸さんの場合、両親が毒親だったために極力実家に関わらないようにしてきたことが、裏目に出てしまった。

「両親と距離を取っていたため、除々にではなく、いきなり介護に放り込まれ、最初の頃は右も左もわからず、混乱し絶望するのみでした。しかしつらさや苦しさを乗り越えるためには、とにかく介護について徹底的に調べ、知識武装するしかありません。私は仕事の合間に時間を見つけては、現存するさまざまな介護サービスを調べ、理解し、自分が利用できるものは利用していきました」

リアルな友人・知人やオレンジチームだけでなく、SNSなどインターネットを利用して実際に介護している家族や介護職の人とつながり、相談や情報交換をし合い、多くの情報を集めたうえで、その中から自分に合った対処法を見つけることで、困難を乗り越えてきた。

しかし、知識武装で乗り越えられる困難ばかりではない。深戸さんは現在でも、子どもの頃に両親にされたことを口にするのもつらいという。両親を介護するため、自分が育った実家で両親と向き合えば向き合うほど、子どもの頃の嫌な記憶を呼び覚ましてしまう。

「平日は直接介護しなくても、何かあればヘルパーさんや訪問看護師さんなど、関係各所から日中頻繁に私の携帯電話に連絡が入ります。小さな町工場で働いている私にとって、仕事への影響は大きいです。こちらから問い合わせするにも仕事の手を止めねばならず、何かあれば会社を休んで動かねばなりません。介護の終わりが親の最期を意味するとしても『こんなことが、いつまで続くのか?』『早く終わって楽になりたい』と考えながらやっています。介護にやりがいや喜びなどは無く、つらさや苦しさばかりです。介護者が報われる日はくるのでしょうか?」

やるせない思いの吐露や愚痴は、妻に聞いてもらった。極力両親と顔を合わせたくない妻は、リウマチをコントロールしながら実家の片付けは手伝ってくれているが、「普通に生活していてお金がないなら仕方ないけど、あれだけ無駄にお金を使い切って、うちから支払いしないといけないなんて我慢ならない!」と怒り心頭だ。

両親との良い思い出もあったと思うが、「全く思い出せない」と首を振る深戸さんは、毒親の両親といえども、心を無にして嫌々動いていたわけではなく、両親のことを思い、なるべく最善の選択をしてきた。

「両親にされた嫌なことが、今でも洪水のように次々と思い浮かぶのに、自分が父や母のことを考えて動いていることに気付いて、時々戸惑います。私は両親が亡くなったとき、どう感じるのだろうか、と常々考えていますが、今は、何も感じないような気がしています」

7月、母親は特養へ入所。大腿骨骨折した父親は現在も入院中だ。

「私のように毒親と距離を置いている人は注意してください。少しでも親の様子がおかしいと感じたときは、『関わりたくない』と思っても、早めに親の現状を把握することが、後々自分の生活を守ることにつながります。私の場合は、あと1カ月早く気付いていたら、もっと楽に対処できていたのにと思います。少しでも早く動き始めることが大事だと思います」