藤田vs広岡対決は新時代を担う争い
巨人対西武の戦いは盟主の座をかけた戦いであり、藤田対広岡の監督対決はポスト川上の新時代を担う争いだった。川上を師と仰ぐ藤田にとって、広岡は“同根の弟子”であった。
川上の野球哲学をひと言で表現すると、「チームプレー」。川上の凄さは、グラウンド内だけでなく、グラウンド外でもそれを求めたことにある。
V9たけなわの頃、川上はミーティングの席で、「チームプレーとは何か。ひと言で答ろ」と命じ、長嶋茂雄や王貞治らに迫った。
「ちがう。それも、ちがう」
川上は選手たちの返答を全部否定した後、正解を語った。
「便所を出るとき、次に入る人が履きやすいように、スリッパをきちんと揃えること。それがチームプレーだ」
広岡が川上と対立したのは、1964年。東京オリンピックが開かれた年である。
8月6日の国鉄戦。場面は巨人が0対2とリードされ、迎えた7回表一死三塁。マウンドには、国鉄のエース、金田正一。この場面で、三塁走者の長嶋がホームスチールを試み、失敗。すると、打席の広岡はヘルメットを叩きつけ、そのままロッカールームに直行した。遊撃手出身で、自他共に許す球界一の理論家だけに、2点ビハインドの本盗はセオリーになかった。
当夜、怒り狂う広岡の自宅に電話を入れた男がいる。誰あろう、藤田である。
「ヒロさん(広岡の愛称)、電話でいいですから、監督さんにあやまってください」
藤田は試合中にも、ロッカールームに向かった広岡の後を追っていた。
「あの態度は、なんとしてもまずい……」
ふたりは公私にわたって親しく、グラウンドではそれぞれコーチ兼任のプレーイングマネージャーであった。
広岡は、きっぱり答えた。
「マナーの悪かったことは認めるし、罰を受けてもいい。でも、あやまる気はない」
広岡が巨人を追われたのは、それから2年後のことである。