「人に迷惑をかけない」という信念

王貞治は、ソフトバンク・ホークスの監督を退任した2008年の10月下旬、福岡から上京して新聞・通信・テレビのマスコミ各社を回った。これまでのプロ野球監督で、マスコミ各社に退任挨拶回りをした監督は一人もいない。東京では20を超す社を2日間に分けて訪問した。

その席で王は「長い間ありがとうございました」といって頭をさげた後、こういった。

「今後は秋山を支えていきます」

秋山とは自分の後任の秋山幸二監督のことである。これからホークス会長として球団に関係する立場だとしても、みずから出向いて礼をいい、後任者をよろしく、といった監督も日本のプロ野球で初めてである。

この一件に王という人間の在り方が象徴的に出ている。

王の信念の一つに、「人に迷惑をかけない」というのがある。小さいときからの両親の教えである。父の仕福さんは戦前に中国・淅江省から来日して日本人の登美さんと結婚し、ラーメン屋の「50番」を営みながら長男を医者に、二男を電気技師にして、やがて故国へ帰って貧しい人々の役に立ちたい、という将来を夢見ていたが、日中戦争が始まってしまった。ただでさえ異国で生活するハンデのうえに日本と故国が戦うという異常な環境の中で生きていくには、「人に迷惑をかけない」ことが絶対的に必要なことだと思ったからだろう。子どもたちは両親の教えを守った。兄は父親の願いどおり医者になった。

王は両親からもう一ついわれていたことがある。「おまえは二人分生きるんだよ」ということだ。王は双子で、もう一人の女の子は生まれてすぐ亡くなっていたからだった。

王の人生を振り返ってみると、両親にいわれたこの2つを忠実に守ってきたように思われる。

現役時代は人の2倍も3倍も努力した。巨人入団後、荒川博コーチとの文字どおり血の出る練習をした裏には、荒川コーチが別所毅彦ヘッドコーチらから、「甲子園の星はいつになったら打つんだ。あんた、コーチだろ、早く打たせろ!」と責められていることを知っていたからだった。王は、「最初は荒さんのために練習しなきゃ、っていう気持ちだったね」といっているが、一本足打法で初めて打ったときもそうだった。

昭和37(1962)年7月1日。「試合前に荒さんが血相変えてきて、おい、何でもいいからきょうは一本足で打て!」といってきた。王は、何かあったな、と直感して立った打席で、練習でタイミングを取るためにやっているだけで打法としては未完成な一本足で打った。幸いホームランになった。後に荒川コーチは、「あのとき打てていなければ今日の王はいないね」といっている。

色紙に「努力」と書いてその座右の銘どおりに努力し、師と仲間に恵まれ、やがて「相手を思いやる」人間性をつくりあげていった。義理堅く律義で、相手の立場を尊重して希望を奪わず、筋を通し、規則や規律を守って正論を吐く野球人になっていった。

ホークス監督時代に、FA権を手にした城島健司が、大リーグへ行きたいといってきた。城島は監督になったとき高校からはいってきた新人で、捕球やリードはめちゃめちゃだったが、打力を評価して使い続けリーグ屈指の捕手に育て上げた。監督就任から5年目でようやくリーグ優勝することができたのは、守りの要である捕手の城島が一人前になったからだった。それまで、王は球場で卵を投げつけられ、マスコミにたたかれ、中洲では飲むこともできなかった。その肩身の狭い自分を解放してくれ、このあとホークスの黄金時代を一緒に築いていこうという大事な仲間がチームを離れたいというのだ。監督としては困る。しかし引き留めるどころか、「大いに頑張って、また帰って来いよ」といって送り出した。

井口資仁の場合は、球団フロントが前年更新した契約で、「希望する時点で大リーグへ行くことができる」という特約項目を認めていたため、7年目でポスティングシステムによる大リーグ行きとなった。このとき王は腹が立った。城島はFAという筋道を通してのものだったが井口は、フロントが監督の手の届かないところで特約をつくっていたからだ。王は、「野球と球団を愛していないやり方だ」とマスコミに正論をぶつけた。