勤務先が閉業しても心が折れなかった理由
大学を卒業し、新卒で入社した地元の福島県会津若松市にある銀行は3年で辞めてしまいました。退職の理由は地方銀行の堅い社風に馴染めず、定年まで働くイメージができなかったからです。『深夜特急』(新潮社)を書いた沢木耕太郎氏が旅に出たのが26歳。旅に憧れ、「26歳までには海外へ出たい」と考えていた私は、このタイミングでオーストラリアに1年3カ月、ワーキングホリデーで渡りました。
帰国後はクレジットカード会社、中古車買取仲介など職を転々としました。雇用形態は正社員だったり、派遣社員だったりとまちまちで、2〜3年おきに退職を繰り返していました。ただ、趣味の旅は続けていて、転職までの無職期間を使い、バックパックを背負って世界各国を巡っていました。
旅好きが高じて地元にゲストハウスを開業しようと模索していた矢先、東日本大震災が起き、私も被災者となりました。ゲストハウスの開業を諦めて仕事を探していたとき、被災者向けの求人を見つけました。
応募したのは東京にあるインバウンド向けのホテルです。ワーキングホリデーと旅の経験から英語を話すことができたので、「自分でもできそう」という単純な動機でホテルマンになりました。
その後もいくつか転職を繰り返し、浅草のインバウンド向けホテルで働いていたときに、コロナ禍がやってきました。そして、3週間前にいきなり「ホテルが閉館になる」と知らされ、また無職になってしまったんです。
仕事は主にフロント業務で、宿泊管理やゲスト対応に追われていました。夜勤ばかりで17〜翌11時までの18時間労働は身体的にかなりキツかった。当時は40代でしたが、50代、60代とホテルマンとして働き続けることに無理を感じ始めていたところでした。それに、会社都合の解雇で退職金の上積みがあったので前向きに捉え、海外へ長期の旅に出ました。
記憶力の低下を乗り越える方法
でも、その後23年に入社した人材紹介会社で仕事に対する考え方が変わってきたんです。比較的大きな会社だったので、仮に昇給したところで自分の未来はある程度想像できてしまうし、劇的によくなっていく可能性もない。管理職になったとしてもバックパッカー気質の自分には合うわけがない。そして、上司とのソリが合わず、日々ストレスを感じながら働いていました。
加えて、クライアントのほとんどは「特定技能」で日本にやってきた外国人が就労する建設業界や外食業界の会社でした。「私は英語も話せるし、外国人の知り合いも多いし、行政書士の資格さえ取ってしまえば自分一人でもこの分野で食っていけるんじゃないか」
入社してから半年が経つとそんな気持ちが生まれ、一念発起して行政書士を目指すことにしたんです。
まず、資格取得に向けて予備校に通い始めました。これには理由があり、完全に独学だと試験範囲の中でどこが重要な部分なのかがわからないからです。全部を覚えようとすると、量が多すぎて到底間に合いません。予備校では19〜22時まで週2回、基本的な知識を頭に叩き込んでいきました。
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