接待文化に抵抗感 自前の営業に転換
1986年1月、38歳直前で取締役営業本部長となった。父・雅夫さんが創業した会社に入って15年、海外分野の担当が続いたが、初めて国内営業もみることになる。別に、将来のための「帝王学」ではない。営業部門に課題が多く、それを克服することが使命だった。以来、専務、副社長、さらに社長になった最初の年を含めて約7年間、40代半ばまで営業本部長を続ける。
就任当時、日本はバブル経済が膨張していく時期で、世の中、元気がよかった。にもかかわらず、国内販売には不安が強まっていた。エンジンなどの排ガス対策を進めるための計測システムを納入していた自動車メーカーが、貿易摩擦の解消に次々と海外工場を拡充し、大黒柱だった国内需要が落ちてきた。
だが、国内の営業活動はメーカー系商社を総代理店にして、任せ切りで、対応は遅れている。一方、海外では自社で営業をしていたから、自動車メーカーの様々な要請にも、素早く応じていた。逆風を押し返すため、営業本部に海外部門も合体し、双方の指揮を執ることになる。
車の海外生産が増え、現地で堀場製品を購入するようになると、総代理店をしていた商社が「もともとは国内で納めていた分、その納入権はうちにあるはずだ」と手を伸ばしてきた。でも、海外での営業が実を結んだ成果だから、承服はしない。関係は、険悪になりつつあった。
もちろん、創業期から販路を広げてくれた商社マンたちに、誰もが感謝はしていた。ただ、製品の納入先に同行してみると、彼らはゴルフと宴会の話ばかり。接待は否定しないが、ビジネスのグローバル化は進んでいた。新入社員時代を米国ですごし、合理性が優先する世界を肌で感じてきた身には「接待などしても、それで取引先を選ぶ時代ではないのにな」と首をかしげる日々だった。
自分たちは、納入先の責任者に会えたら、相手がどんなニーズを持っているか、どういう技術を探しているかを、聞きたい。でも、そういう話にはならない。日本特有の営業の世界なのだと我慢はしたが、「どうにかしたい」とは思ってはいた。