交渉から決着まで韓国へ300回
1999年12月、オリックスが動いた。90年代後半の金融危機で日本の銀行や証券会社は体力を著しく落とし、企業が株式や債券を発行して資金を調達するのを請け負ったり、合併・買収(M&A)の助言や仲介をしたりする「投資銀行業務」から、遠のいた。これに対し、オリックスは「チャンス到来」とみた。組織改革で投資銀行本部が新設されて、そこの副部長になる。
それより前、韓国のハンファ企業グループからオリックスの首脳陣に「韓国第2位の生命保険会社である大韓生命の買収を、一緒にやらないか」との話が入っていた。大韓生命はアジア通貨危機の後、巨額の不良債権を抱えて経営が破綻し、韓国預金保険公社(KDIC)が公的資金を注入、完全管理下に入れていた。
だが、韓国経済が回復へ向かい、KDICは過半の株式を入札で売却する方針を決定。ハンファが応じる意欲を持ったが、海外資本の参加が望まれていたため、パートナーに選ばれた。首脳陣は、韓国市場で根を広げる好機、ととらえた。
買収参加への担当者となり、ハンファと協議し、計画を練り、KDICと交渉する、という日々が続く。結局、ハンファとオリックス、豪州の生命保険会社の3社連合が米国勢に競り勝ち、2002年12月に大韓生命の株式を51%取得。ハンファが30.5%分、豪州生保が3.5%分、オリックスは17%分を持った。決着まで丸3年、ちょうど40代が終わる時期だった。
最も腐心したのは、オリックスが不利な立場にならないように、対等の発言権を確保することだ。株式の保有比率が少なくても、取締役を3人送り込むことを認めさせ、財務内容を把握するために最高財務責任者(CFO)の地位も確保する。取締役会に日本語と韓国語の同時通訳を入れさせて、資料もすべて両国語でつくらせる。上司が「そこまで、やるのか」と驚いたほど、きつい内容の契約書を、1人でまとめた。
自らもオブザーバーとして参加して、やがて取締役に就任。毎週、ソウルへ飛んで、議論を重ねる。なかでも、カード会社への融資の回収では、激しくやり合った。