売れているのにクルマをつくらなかった
正直にいうと、2008年秋からの環境の激変は予想を超えていました。しかし前年に米国でサブプライム問題が持ち上がったころから、「何かありそうだ」という予兆は感じていました。
08年は自動車産業最悪の年だった。ホンダも無傷ではいられなかったが、迅速な経営判断によって国内大手3社では唯一、黒字確保に成功。背後には福井氏ならではの状況の“読み”があった。
当時、米国市場ではクルマの販売は好調でしたが、建機メーカーなどにOEM供給する汎用エンジンの売れ行きが鈍っていました。建築工事に異変が起きていたのです。夏になると、自動車販売も変調をきたすようになりました。
といっても、カリフォルニアがダメでも中西部や東部は好調、という具合に州ごとに状況が異なるため「確実に不況が来る」とは断言できませんでした。実は11月中旬になっても、米国の販売現場は「シビックが足りない」と本社をせっついていたくらいです。
しかし私は、以上さまざまなデータから変調の兆しを感じていたので、08年4月に新しい3カ年計画を立てる際は、行動要件として「柔軟に」「機敏に」という言葉を差し挟みました。今後、世界経済はどう動くかわからないが、何があっても柔軟かつ機敏に対応しようというシグナルです。そうした下地があったうえで、(リーマン・ショック直後の)9月下旬に緊急タスクフォースを立ち上げ、不況対策に当たらせたのです。
事態は深刻だった。赤字転落を避けるため、福井氏はF1からの撤退や設備投資の凍結をいち早く決断。その一方、ハイブリッド車の新型インサイトを09年2月に発売し攻勢に出た。そして6月末の社長交代を発表する。
09年3月期の業績が厳しいものになるのはわかっていたので、それに対する手立てを08年のうちに講じました。そのうえで新しい人(伊東孝紳次期社長)にバトンタッチすることを決めたのです。