※本稿は、榎村寛之『女たちの平安後期』(中公新書)の一部を再編集したものです。
孫娘に対する道長の態度の変化
藤原妍子が三条天皇の後宮に入り、長和2年(1013)に禎子内親王を産んだ。男の子でなかったので祖父の道長は喜ばなかったとされるが、やがて状況は変わってくる。
禎子は生まれてすぐに内親王宣下を受けた。2年後の長和4年に着袴(袴を穿く儀式、赤子から子供になることを祝い、普通は五歳くらいでおこなう)して三宮(太皇太后・皇太后・皇后)に準ずる待遇を受ける。
長和5年に父天皇が譲位し、翌年には亡くなるのだが、彼女は治安3年(1023)に裳着(女子が初めて裳を付ける儀式)、つまり成人式をおこない、一品、つまり皇族として最高位が与えられた。11歳にして皇族最高位、太皇太后彰子に引けを取らない立場になったのである。
その彰子は、彼女の裳の帯を結ぶ役目、腰結(男の子の加冠と同様に、後見人を意味する)を務めている。禎子内親王は皇族だが明らかに摂関家を挙げてバックアップされた姫君だった。
禎子内親王とその姉たちとの格差
彼女の昇進の早さは三条天皇の長女で、伊勢斎王を務めた異母姉の当子内親王と比べるとよくわかる。
当子は長保3年(1001)の生まれで、三条天皇の即位までは皇太子の娘だったので女王だった。内親王になったのは父天皇の即位に合わせて寛弘8年(1011)、12歳のときである。そして翌年に斎王となるが、このときにはまだ無品(位のない皇族)で、裳着も済ませていなかった。
そしてどうやらそのまま、つまり成人式を後回しにして天皇の名代として、伊勢斎宮への一世一代の大規模な旅(群行)をおこなうことになったらしい。
もともと彼女は何かと父天皇をサポートしようとしていた。
野宮(伊勢に来る前の1年間、斎王が潔斎する京外の仮の宮殿)からは「このころ斎王に皇女を立てるのはまれなこと(実際、そのときの天皇の娘が斎王になったのは、村上天皇の時代以来五十余年ぶりだった)なので、在位18年を保証しよう」という夢のお告げを受けたと報告したり、斎宮に着いてすぐには「伊勢では恠異もなく、いたって平穏です」と手紙を送ったり、「お父さんがんばれ!」意識が非常に強い。