自民党の石破茂衆院議員は、「次の首相にふさわしい人」としてたびたび注目されてきた。しかし、総裁選では国会議員の支持が伸び悩み4戦全敗。石破氏はなぜ自民党内で支持を得られないのか。石破氏の著書『保守政治家 わが政策、わが天命』(講談社、倉重篤郎編)から、地元・鳥取で過ごした少年時代のエピソードを紹介する――。
吉田茂から「茂」をもらう
私は、1957年(昭和32年)2月4日、東京都千代田区で、父・二朗、母・和子の長男として生まれました。上に姉が2人います。私が生まれた時、父は建設事務次官で48歳、母は39歳でした。父の秘書を務めていた高岩迪資氏によれば、自分が高齢だということで父はあまり病院へ行きたがらず、高岩氏が代理で病院へ出かけていたことが多かったので、病院の人々から高岩氏が私の父親と間違えられることがあったそうです(『回想録石破二朗 追想篇』から)。
両親の結婚は父が30歳、母が20歳ですから、当時でも遅かったわけではありません。上の姉が1940年、下の姉が41年生まれですから、私と下の姉でも16歳の差がありました。姉2人はいずれも母の意向で、中学から私立の女子学院に進学し、東京女子大を出て上の姉は国語、下の姉は英語の教師になりました。母も国語の教師だったので、教師一家ともいえます。父が亡くなった時に母に聞いたら、当時の役人は給料が低くて、娘二人を私立に行かせると、なかなか3人目を作る余裕がなかった、と言っていました。
「石破金太郎」「石破栄作」になっていたかも
なぜ「茂」と名付けたかについては、母から聞いたことがあります。父は男の子ができたのが嬉しくて、名前は相当前から決めていたのですが、それがなんと「金太郎」だったのだそうです。あの鉞担いだ金太郎さんです。
それを聞いた母が「子どもが幼稚園や小学校に行って『ヤーイ、金太郎』なんていじめられたらどうするんですか」と血相を変えていさめたら、父はがっかりして、もうどうでもいいやと、吉田茂の茂をもらってきたんだそうです。父は政治家としては、吉田茂、佐藤栄作系ですから、不思議はありません。私も「石破栄作」よりは良かったような気もします。