歳を重ねたらやるべき大事なことは何か。精神科医の保坂隆さんは「私は40代で自分の墓を作り、60歳になった年に仏教を本格的に学び始めた。老年になり時間にゆとりができたら、もっと死について熟考すべきだ。エンディングノートを書くだけでなく、夫婦や家族で普段から死についても率直に話し合っておく必要がある」という――。

※本稿は、保坂隆『お金をかけない「老後」の楽しみ方』(PHP研究所)の一部を再編集したものです。

日本の葬儀
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簡素な葬儀になっていくのは、望ましい傾向

最近、新聞の訃報欄を見ても「葬儀は近親者ですませ……」という文言をよく見かけるようになりました。そのうえで後日、親しい友人などが集まり、お別れ会を開く――。次第にこうした簡素な葬儀になっていくのは、望ましい傾向だと私は思っています。

これまで、日本の冠婚葬祭は派手すぎるうえ、弔意や祝意を「香典」や「御祝」などの現金で示すことが普通でした。でも考えてみれば、これは戦後の何十年かの間に急速に発達した習慣だったのではないでしょうか。

戦前の庶民の暮らしを描いた映画などを見ると、結婚式も葬式もそれぞれの家で執り行なわれ、近所の奥さん連が割烹着かっぽうぎ片手に台所に集まり、ふるまい料理などを手伝ったりしたものでした。

それがいつの間にか、結婚式も葬式も、専門業者の手で行なわれるようになります。商業主義が介在するようになると、形ばかりが派手になり、ただ空々しい後味が残るような式が増えたように感じられてなりません。

これは冗談にせよ、「葬式代ぐらい残して逝きたいよ」などと口にする人がいるのも、いつの間にか、こうした仰々しい費用のかかる葬式が当たり前のことだという思いが、刷り込まれてしまったからかもしれません。

私が知っているかぎり、アメリカでは葬儀も結婚式ももっとアットホームです。もちろんお金もそれほどかからず、それゆえにいっそう心に沁みるものであるようです。

「驚いたよ。彼の供養に行ったら、仏壇はいうまでもなく、位牌いはいもなければ線香立て1つないんだ。遺骨と写真だけ。遺骨の前には、大好物だったバーボンウイスキーのキャップが数個置かれていただけだった……」

昨年、仕事仲間を見送った知人がこう語っていました。海外出張先で訃報を受け取り、帰国してからお参りに行ったため、葬儀の様子を知らなかったらしいのですが、息子さんから通夜も葬儀もなし、病院から火葬場へといわゆる直葬にしたと聞いたそうです。

戒名もなく位牌もない弔い方は、亡くなった人の固い遺志だったということでした。故郷の海に散骨してほしい、墓も要らないと言い残して逝ったそうです。