偉人と呼ばれる人たちは、山あり谷ありの人生をどのように生き延びたのか。ライターの栗下直也さんは「例えば、現在巨人の2軍監督を務める桑田真澄さんは、20代の頃に多額の借金を抱えたが、愚直に投げ続けることで周囲の評価を180度変えた」という――。(第1回)
※本稿は、栗下直也『偉人の生き延び方』(左右社)の一部を再編集したものです。
巨人の若きエースによる「電撃発表」
野球選手は孤独だ。華やかな世界に映るが、何の保障もない。投げられなくなったら、打てなくなったら、怪我をしたらおしまいだ。ごまかしがきかない。彼ら自身がその厳しさを一番自覚している。だからこそ、現役時代から引退後を見据えてサイドビジネスに手を出す者も少なくない。
1980年代、球界を代表した江川卓(当時巨人)は「財テクは趣味」と公言していたし、三冠王を3度獲得した落合博満(当時ロッテ)も多くの不動産を所有していた。彼らの全盛期は日本経済が膨張を続けた時期と重なる。バブルの絶頂期だ。何者でもない会社員ですら、銀行は頼めば融資してくれた。有名野球選手となれば、なおさらだ。
「投げる不動産屋」とバブル期に陰で呼ばれるまでに不動産投資の副業にはまったのが巨人のエース・桑田真澄だ。PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで日本中の話題を独占し、プロ入り後も2年目の昭和62年(1987年)に沢村賞を受賞。登板日漏洩疑惑などダーティーな一面はあったものの、昭和62〜平成2年(87〜90年)まで4年連続で二桁勝利を上げ、球界のエースへの階段を順調に上っていた。
それだけに、平成3年(91年)2月の春季キャンプでの「電撃発表」は衝撃をもって受け止められた。桑田の「破産」が球団幹部から報道陣との懇談の席で発表されたのだ。