
江戸城でめぐらされていた将軍の座をめぐる権謀術数
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)は、徳川将軍家の暗闘が描かれている。そのキーポイントは御三卿である。将軍輩出を狙う一橋徳川治済(生田斗真)、定信(賢丸:寺田心)によって家系存続を図る田安徳川家の野望が描かれている。
御三卿は、8代・徳川吉宗(1684~1751)が、長男の徳川家重(1711~1761)に将軍を譲った翌年、次男の徳川宗武(1715~1771)、四男の徳川宗尹(1721~1764)にそれぞれ江戸城内の田安門・一橋門近くに邸宅と10万石を与えたことにはじまる。そして、9代・徳川家重も父に倣って、次男の徳川重好(1745~1795)に清水邸と10万石を与えたのだ。
9代・徳川家重は障害により言語が不明瞭で、酒色におぼれ、文武を怠る人物だった。これに対して、次男の田安徳川宗武は文武に優れ、特に国学には造詣が深かった。当然、幕閣の中には宗武を将軍に推す声が大きかったが、吉宗は長男がいながら、次男を擁立すると国の乱れのもととなるとして、家重を将軍とした。宗武はこれを後々まで不服としたので、10万石を与えて別家としたのであろう。
徳川御三家と御三卿の違い、御三卿は大名ではない
ちなみに、この「御三卿」は大名ではない。「将軍家の家族」という位置づけだ。
だから、田安徳川治察(入江甚儀)が、弟の松平定信に跡を継がせようと画策しても、将軍家(=幕府)がそれを阻止することができたのだ。
これが「御三家」だったら大問題だ。後日、11代将軍・徳川家斉の子どもが次々と御三家に送り込まれるが、これは御三家の家老が了解したから実現している。時には、藩内の反撥に押されて受け入れを拒んでいる。それは御三家が独立した大名であるからだ。
これに対し、御三卿は将軍家を家長とする一族だから、将軍家が家督相続に介入できるという立て付けなのだろう。
では、なぜ御三卿は大名ではないのか。
