歴代将軍の次男以下は原則として大名に封ぜられていたが…

そもそも歴代将軍の次男以下の子どもたちはどのように遇せられていたのだろうか。

初代・徳川家康の子どもたち(のうち、成人した子)はみな独立した大名となった。

2代・徳川秀忠の三男の徳川忠長(1606~1633)は11歳で駿河駿府藩23万8000石の大名となった(庶子・保科正之は保科正光の養子)。

3代将軍・徳川家光の三男の徳川綱重(1644~1678)は8歳で甲斐甲府藩15万石、四男の徳川綱吉(1646~1709)は6歳で上野館林藩15万石の大名となった。

6代将軍・徳川家宣の弟の松平清武(1663~1724)は45歳で上野館林藩2万4000石の大名となり、5万4000石に加増された。

つまり、歴代将軍の次男以下の子どもたちは原則として大名に封ぜられたのだ。そして、徳川家光の四男・徳川綱吉、その甥(綱重の子)の徳川家宣は大名から将軍に擁立された。

御三卿を設立した目的は、「将軍の跡継ぎを輩出すること」だと説明されている。しかし、御三卿なんか創らなくても、次男以下の子どもを大名にすればよかったのである。実際、3代将軍・家光の家系もそうやって曾孫の代まで将軍を輩出してきた。吉宗の家系がそれより続いたのは、家光の曾孫の7代・徳川家継にたまたま子がなく(というより早世してしまい)、吉宗の曾孫の11代・徳川家斉がたまたま子沢山だったかの違いでしかなかい。

換言するなら、なぜ吉宗は次男以下の子どもを大名にしなかったのか?

吉宗の遺言「御三卿は後継者がいなければ廃絶」は史実か?

松平定信は兄の死後に田安徳川家を継承するように幕府に嘆願したが、幕閣は吉宗の遺命によれば、「御三家の領知は部屋住み料として与え、無嗣(跡継ぎの男子がいないこと)であれば収公(家禄を没収)するとあるため、願いは却下する」(高澤憲治『人物叢書 松平定信』)。

東京都千代田区の皇居(旧江戸城)田安門
撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に八代将軍吉宗の第二子宗武が一家を創立して御三卿・田安家を興した

大河ドラマ「べらぼう」では、田沼意次(渡辺謙)が平賀源内(安田顕)に命じて偽造させたということにしていたが、実際には改ざんなんてしていなかっただろう。

吉宗は自分の子どもを大名並みに遇しはしたが、新規の大名として立藩してしまうと、財政的に好ましくないと判断したのではないか。だから、当主の嫡男に子どもがあれば、家として存続しても、まぁしょうがないが、嗣子が途絶えれば、廃絶してしまおうと考えたのだろう。

御三卿の家禄は10万石だが、特定の地域をまとめて与えられたわけではなく(たとえば、田安徳川家の場合は武蔵・下総・甲斐・摂津など6カ国合計で10万石)、家臣は旗本の出向組だった。なんだか中途半端で、いつでも事業撤退(廃止)できるプロジェクトに見える。