出雲国の大名、山陰山陽8カ国に勢力を広げた尼子晴久
尼子晴久(あまご・はるひさ) 永正11年(1514)~永禄3年(1561)
出雲国の戦国大名。尼子経久の孫で、父・政久の急死により24歳で家督を継ぐ。天文9年(1540)に安芸国の毛利元就を攻めて敗北。その後、大内義隆の出雲侵攻を撃退すると勢力を回復し、毛利を破って石見銀山を奪取した。天文21年(1552)には室町幕府より山陰・山陽八カ国の守護に任命され、尼子氏の全盛期をもたらしたが、月山富田城にて47歳で急逝した。

前回の記事「戦国武将の運命を決めた城 吉田郡山城をめぐる大内義隆と尼子詮久の戦争」では、大内義隆が天文9年(1540)から天文10年(1541)にかけて、安芸国(広島県)の吉田郡山城を舞台に尼子詮久(晴久)と繰り広げた一大合戦を紹介した。
義隆は毛利元就を援護し、郡山合戦で尼子軍を撃退、安芸国を平定することで、西国一の「武徳之家」たる武威を示した。
しかし、この勝利は新たな戦いの序章に過ぎなかった。
今回は続編として、天文11年(1542)から天文12年(1543)にかけての「月山富田城の戦い」を取り上げよう。
毛利と組んで安芸国を平定した大内義隆が攻めてきた
安芸国の平定を成し遂げた大内義隆は、天文10年(1541)の冬を本拠地・山口で過ごした。
だが尼子への攻勢をこのまま終わらせる気はなかった。折しも同年11月13日、尼子家の重鎮・尼子経久が84歳で病没した。
経久は尼子家の礎を築いた老練な武将で、もとは出雲守護・京極家の守護代だった。15世紀末に国人連合に推される形で下克上を果たし、領国支配権を吸収した。その後、新興勢力・尼子家の指導者として、その威勢を陰陽十一カ国に影響を及ぼす巨大勢力に育て上げた。
経久の死は、義隆にとって吉報である。尼子家は長年大内家の障害であり、経久が亡き者となった今こそ二度とない好機といえた。
天文11年(1542)1月5日、義隆の養嗣子・大内恒持(晴持)が19歳にして従五位下から正五位下に昇進する。のちの上杉謙信や武田信玄が生前に受けた官位より上位である。
義隆は、後継者にふさわしい舞台を用意していた。尼子の本拠地・月山富田城への侵攻計画である。
同月11日、大内義隆は防府(周防国山口)を出発し、大軍を催して「出雲乱入」の実行に着手する。