勢いに乗る大内義隆が周防国山口から北上、出雲に乱入

同年(1542)2月には、先遣隊が「新庄西禅寺」(現・北広島町)に到着した。無理のない進軍速度である。3月には、義隆本隊も安芸国佐東郡銀山城から北に進軍して、西禅寺に入った。

ここからは周囲に残存する敵勢力をひとつずつ制圧しながらの進軍である。

なお、この時期、義隆は朝廷に奏請そうせいして自分の家臣とする「有道保国ありみちやすくに」なる人物を太宰大監に任官してもらっている。義隆には信長クラスの傾奇者かぶきものでもやらないような、お茶目なところがあり、過去には「山口興家やまぐちおきいえ」「筑紫海静ちくしみしず」「漢人着朝かんどつきあさ」という人物にも官途を求めて認められている(名前のルビは筆者の想像)。

「大内義隆画像」玉堂宗条賛(模写)、楯護介蔵(東京大学史料編纂所所蔵)を改変
「大内義隆画像」(模写)、楯護介蔵(東京大学史料編纂所所蔵)を改変

いずれも実在の確認されていない人物で、義隆が独自に創作したバーチャル武将に任官させていたらしい。任官の奏請は莫大な資金を要する大事業である。よく見るとみんな縁起のいい名前をしている。今回の「有道安国」はこの出雲遠征にかける思いが反映されているだろう。

こんな途方もないことをやる大名は、義隆ぐらいなものではないか。奏請を受ける公家たちも一目見れば、察しがついたに違いない。だが、否定する材料がなく、献金さえしてくれれば朝廷も潤うのだから、そのまま受けて立つのがお互いのためである。

義隆もこういう口実を作って朝廷との関係を強化していたのだろう。

莫大な資金力だけでなく、その使いどころまで、西国一の大名といっていい風格があった。

尼子家の若き当主、晴久は足利将軍に認められたが…

だが、尼子詮久あきひさもただ手をこまねいているだけではなかった。経久が亡くなる前の天文10年(1541)10月2日、将軍・足利義晴よしはるから、「晴」の一字を拝領する許可をもらい、名乗りを詮久から晴久はるひさへと改めた。

これは経久の後継者として、幕府から出雲国の統治権を改めて公認されたことを示す。

この年に尼子軍が大内軍の武力によって安芸国から放逐されたのは隠れもない事実であったが、畿内方面からの印象はまだ悪くなかったことになろうか。長期政権としての実力が備わっていると判断されたのだろうから、その威風はまだ衰えていなかったと思われる。

ただし義晴はこの翌月、畿内の紛争で劣勢に陥って近江国坂本に逃れており、政情不安定のため来るものは拒まずの姿勢を取っていたのかもしれない。

晴久への一字拝領は、将軍と義隆に交渉があることを理解してのことと考えれば、むしろ威風を保つための読みの深さが成果を実らせた行動として評価するべきではなかろうか。