※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。

安田財閥の初代総帥・善次郎が大正10年に暗殺される
婿養子の安田善三郎(1870~1930年)は、徒弟制度中心だった安田財閥に新風を吹き込もうとしたが、その本人が、1920年12月に安田家から追放されてしまう。そこでやむをえず、暫定的に長男・善之助を後継者として戸籍を整え、初代・安田善次郎は満82歳にして後継者問題を再考せざるを得ない状況に追い詰められる。

ところが、その翌年の1921年9月、善次郎は国粋主義者によって暗殺されてしまう。大磯の別荘にいた善次郎は、朝日平吾(1890〜1921)という人物に面会を求められ、拒否するものの執拗な申し出に根負けして面会に応じた。朝日は善次郎に社会事業計画を話して寄付金を求めたが、寄付嫌いで有名な善次郎はこれを拒絶。すると、朝日は短刀で善次郎を刺殺し、自らも命を絶ってしまった。その懐には斬奸状と政府首脳等を批判する書状があったという。
凡庸な息子が跡を継ぎ、実務者として結城豊太郎が入社
善次郎の急死にともない、長男の善之助が2代・安田善次郎(1879〜1936)を襲名して安田財閥の本社に当たる保善社総長に就任した。
2代・善次郎は中学校卒業後ただちに実務に従事し、1893年に満14歳で安田銀行取締役に就任。3年後の96年に頭取に昇格した。しかし、2代・善次郎は算盤や帳簿付けを習っただけで、ろくに教育も受けていない「名ばかり頭取」でしかなかった。
死後に安田財閥の社内報『安田同人会会誌 昭和11年12月 追悼号』で、その死を悼んだが、ビジネス上の業績はほとんど語られず、古典の蒐集や能楽への理解、寄付行為くらいしか讃えるものがなかった(だから、安田善三郎が婿養子に迎えられたのだが)。
安田財閥の経営陣は善次郎の急逝に狼狽し、外部から大臣級の人材を招聘しようと考え、旧知の高橋是清に人選を依頼した。日本銀行総裁・井上準之助が高橋の依頼を受け、白羽の矢を立てたのが、日本銀行理事兼大阪支店長の結城豊太郎である。