旧財閥系企業はその始まりがオーナー会社であり、風通しが悪いというイメージがある。財閥についての著作がある菊地浩之さんは「例えば安田財閥は、初代の安田善次郎のときから社内を改革しようとする人を追放してきた。それは婿養子でも日本銀行から迎え入れた優秀な人物でも変わらなかった」という――。

※本稿は菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。

安田善次郎の肖像
安田善次郎の肖像(画像=『大日本帝国欽定人名辞典』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

安田財閥の初代総帥・善次郎が大正10年に暗殺される

婿養子の安田善三郎(1870~1930年)は、徒弟制度中心だった安田財閥に新風を吹き込もうとしたが、その本人が、1920年12月に安田家から追放されてしまう。そこでやむをえず、暫定的に長男・善之助を後継者として戸籍を整え、初代・安田善次郎は満82歳にして後継者問題を再考せざるを得ない状況に追い詰められる。

安田善三郎
安田善三郎(画像=『今日の日本:1910年にロンドンで開催された日英博覧会の記念品」』望月光太郎著、リベラル通信社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

ところが、その翌年の1921年9月、善次郎は国粋主義者によって暗殺されてしまう。大磯の別荘にいた善次郎は、朝日平吾(1890〜1921)という人物に面会を求められ、拒否するものの執拗な申し出に根負けして面会に応じた。朝日は善次郎に社会事業計画を話して寄付金を求めたが、寄付嫌いで有名な善次郎はこれを拒絶。すると、朝日は短刀で善次郎を刺殺し、自らも命を絶ってしまった。その懐には斬奸状と政府首脳等を批判する書状があったという。

凡庸な息子が跡を継ぎ、実務者として結城豊太郎が入社

善次郎の急死にともない、長男の善之助が2代・安田善次郎(1879〜1936)を襲名して安田財閥の本社に当たる保善社総長に就任した。

2代・善次郎は中学校卒業後ただちに実務に従事し、1893年に満14歳で安田銀行取締役に就任。3年後の96年に頭取に昇格した。しかし、2代・善次郎は算盤や帳簿付けを習っただけで、ろくに教育も受けていない「名ばかり頭取」でしかなかった。

死後に安田財閥の社内報『安田同人会会誌 昭和11年12月 追悼号』で、その死を悼んだが、ビジネス上の業績はほとんど語られず、古典の蒐集や能楽への理解、寄付行為くらいしか讃えるものがなかった(だから、安田善三郎が婿養子に迎えられたのだが)。

安田財閥の経営陣は善次郎の急逝に狼狽し、外部から大臣級の人材を招聘しょうへいしようと考え、旧知の高橋是清に人選を依頼した。日本銀行総裁・井上準之助が高橋の依頼を受け、白羽の矢を立てたのが、日本銀行理事兼大阪支店長の結城豊太郎である。