「上杉謙信と七尾城」をめぐる4つのポイント
・能登は名門畠山氏に対する下剋上が起き実質、当主不在だった
・畠山の家臣たちは上杉謙信派と織田信長派に分かれた
・上杉謙信は畠山家臣と内通して能登の七尾城に侵攻した
・七尾城を落とした上杉軍は、北上してきた織田軍を撃退した
能登の守護・畠山義慶が急死し、家臣らの傀儡政権に
戦国武将の運命を決めた城。今回は越後の上杉謙信が天下取りを果たすために利用しようとした能登七尾城と、そこを拠点とした人々の運命を見ていこう。
天正4年(1576)4月、能登守護の畠山義慶(義隆とも)が急死した。死因は不明だが、このあと重臣たちが擁立した畠山春王丸(不明〜1577年)はまだ幼年で、政治に意見できる身の上ではない。
このため、有力な老臣たちが政権を運用することになった。かれらは過去にも時の畠山当主を能登から追放したことがあり、守護不在の政体に抵抗はなかった。
状況からみて、義慶の死の背景には、俗にいう「下克上」があったものと推定できる。
重臣たちは自分たちの意見をまとめやすくするため、何も言えない少年を守護にすることで、傀儡政権を打ち立てた。義慶(義隆)の急死について『越登賀三州志』は「畠山義隆毒殺」と記すが、定かではない。