「三日天下」と言われるように明智光秀は本能寺の変後、あっけなく豊臣秀吉に倒された。歴史研究家の乃至政彦さんは「光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか。どうして山崎合戦であえなく惨敗してしまったのか。どちらも大名として光秀が推し進めていた分国の軍事改革が一因となっている。大義なき野心が勝利を招いたが、敗北の原因もあった」という――。

※本稿は、乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)の一部を再編集したものです。

右田年英作「英雄三十六歌撰 明智光秀」
右田年英作「英雄三十六歌撰 明智光秀」[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)]

領主別編成から兵種別編成へ、光秀の軍法が明暗を分けた

本能寺の変を起こすちょうど1年前、明智こと惟任これとう光秀は家中の軍法(軍制)を定めた。歴史学界で「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)と呼ばれている史料で、「織田政権に伝来する唯一の軍法」と評価されている。実際のところ織田政権でほかに軍法の史料は認められず、独自の軍制を有していた形跡も見られない。

光秀の軍法は1枚の紙に書かれており、書物ほどの長さではないのだが、それでも結構な長文である。

戦国時代の軍事史および光秀の実態を見るのに、この史料はかなり重要なのだ。

光秀軍法の前部は、史料用語で言うところの「軍役定書ぐんやくさだめがき」の様式に近い。

軍役定書とは、「あなたは鉄炮を2ちょう、弓矢を3ちょう、長柄鎗を6本、縦長の旗を五本、そして騎馬武者を一、揃えて来なさい」という具合に、家中の組織または部下たちに、従軍時の武装内容と動員人数を指定するものである。

軍役定書が登場する以前、大名や大将は、部下や味方の侍たちに「しっかり人数を連れてきてほしい」と催促する程度であったが、やがて「10騎連れてきてくるように」と人数を指定するようになり、戦国時代の後半から、このような指示をする大名が現れるようになったとされている。軍役の規定が具体化する流れは、領主別編成から兵種別編成(兵科別編成)への移行と説明されている。

光秀の前に軍役定書を発した先進的大名たちとは?

戦国時代の軍役定書は、上杉謙信、武田信玄、北条氏康・氏政らの時代の東国で初めて生まれた。基本的には、旗本(馬廻)に新規取り立てされる武士に発せられており、軍役史料が登場する以前は、大名の側近衆が直属の武士たちに口頭でこれを個別に伝え、武装内容と動員人数を整えていたと思われる。

こうすることで、それまで何となく臨時で作られることの多かった鉄砲隊や鑓隊を、5の倍数単位の人数で揃えて、計画的に編成することで、様々な兵種を常用する体制を整えたかったのだろう。そして欠員補充や単純な増員により、武士を旗本に取り立てる時、決められた軍役をしかと守ることを明文化したのである。

日本の武士たちは、謙信・信玄の頃から幕末まで、こうした軍役の様式を使い続けた。小旗・鉄炮・弓・長柄(長鑓)・騎馬の五種類の兵種からなる諸隊が作られ、これを大名が機能的に直接指揮下に置いていたのである。