丹波一国を与えられた光秀は新参兵を統率する必要があった
そこで光秀は、軍制を整え直すにあたり、家中軍法を制定することにしたのだろう。光秀が苦楽を共にした古参の者たちに「俺は若い頃から苦労したけれど、信長さまのおかげでここまで大きくなったよ」というなら感涙されるかもしれないが、征服されてその麾下に入ることになったばかりの丹波の侍たちにすれば、「あー、そうですか、よかったですねー」と呆れる思いがするだけだ。
当時から人心掌握術に定評のあった光秀が、そんな馬鹿なことをするわけがない。甘い昔話をして情緒に訴えるより、「お前たちが石ころみたいにバラバラでいたら、恥ずかしいことになるんだぞ」と厳しく言い聞かせる方が現実的である。しかもこの軍法は、織田家にとって画期的なものだった。
それは光秀がこの軍制について、「愚案」と述べているところにある。これが光秀の独創であることがわかる。しかも家中に疑問があったら遠慮なく意見するよう厳しく言い聞かせていることからもこの軍法ができたばかりの不安定な試作品であることは間違いない。
当時、数千もの兵員の武装と配置を細かく定めて、部隊を再編するのは最先端の軍制であった。そしてこれらは単なる思いつきで創出されたのではなく、実際に有用性が実証されていたからこそ、採用が検討されたと見るべきである。
上杉謙信の強さの理由だった軍編成を光秀は真似した
これは上杉謙信が武田信玄を相手に実用した「車懸りの行」と通称される編成と用兵である。謙信は、遠隔武器による火力集中で敵部隊を混乱させた後、長柄鑓でその動きを拘束して、白兵戦に特化した武者たちを突入させる戦術を愛用していた。
これに立ち向かう信玄は、これと同じ隊形を使ってその戦術に対抗するようになった。こうして、兵種別編成の軍隊が謙信・信玄を中心に拡散していったのである。
天正5年(1577)9月、織田軍は車懸り戦術を担っていた謙信七手組の指揮官が従軍していた上杉軍と接触して、一撃のうちに崩壊させられてしまった。織田家重臣の羽柴秀吉が無断で「帰陣」することになった「手取川合戦」である。
その惨敗を伝え聞いた光秀が、自軍に車懸りが可能な軍制の採用を検討したとして不自然なことではなく、むしろほかに確たる動機を探し出しにくい。
そして、軍法制定から1年が経過して、いよいよこれを実用する機会が訪れた。天正10年(1582)6月2日、光秀が本能寺の変を起こし、信長を殺害して、京都を制圧したのである。光秀はここから天下取りを始動しようと動き出す。
これを受けた信長の遺臣や徳川家康も、主君の仇討ちのためとして、畿内への出馬に向けて動き出す。これを迎撃するには、光秀流車懸りを見せてやるのがいいだろう。