※本稿は、乃至政彦『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)の一部を再編集したものです。
領主別編成から兵種別編成へ、光秀の軍法が明暗を分けた
本能寺の変を起こすちょうど1年前、明智こと惟任光秀は家中の軍法(軍制)を定めた。歴史学界で「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)と呼ばれている史料で、「織田政権に伝来する唯一の軍法」と評価されている。実際のところ織田政権でほかに軍法の史料は認められず、独自の軍制を有していた形跡も見られない。
光秀の軍法は1枚の紙に書かれており、書物ほどの長さではないのだが、それでも結構な長文である。
戦国時代の軍事史および光秀の実態を見るのに、この史料はかなり重要なのだ。
光秀軍法の前部は、史料用語で言うところの「軍役定書」の様式に近い。
軍役定書とは、「あなたは鉄炮を2挺、弓矢を3張、長柄鎗を6本、縦長の旗を五本、そして騎馬武者を一騎、揃えて来なさい」という具合に、家中の組織または部下たちに、従軍時の武装内容と動員人数を指定するものである。
軍役定書が登場する以前、大名や大将は、部下や味方の侍たちに「しっかり人数を連れてきてほしい」と催促する程度であったが、やがて「10騎連れてきてくるように」と人数を指定するようになり、戦国時代の後半から、このような指示をする大名が現れるようになったとされている。軍役の規定が具体化する流れは、領主別編成から兵種別編成(兵科別編成)への移行と説明されている。
光秀の前に軍役定書を発した先進的大名たちとは?
戦国時代の軍役定書は、上杉謙信、武田信玄、北条氏康・氏政らの時代の東国で初めて生まれた。基本的には、旗本(馬廻)に新規取り立てされる武士に発せられており、軍役史料が登場する以前は、大名の側近衆が直属の武士たちに口頭でこれを個別に伝え、武装内容と動員人数を整えていたと思われる。
こうすることで、それまで何となく臨時で作られることの多かった鉄砲隊や鑓隊を、5の倍数単位の人数で揃えて、計画的に編成することで、様々な兵種を常用する体制を整えたかったのだろう。そして欠員補充や単純な増員により、武士を旗本に取り立てる時、決められた軍役をしかと守ることを明文化したのである。
日本の武士たちは、謙信・信玄の頃から幕末まで、こうした軍役の様式を使い続けた。小旗・鉄炮・弓・長柄(長鑓)・騎馬の五種類の兵種からなる諸隊が作られ、これを大名が機能的に直接指揮下に置いていたのである。
光秀が軍法に記した「瓦礫沈淪」の本当の意味
光秀の時代まで、軍役の具体的指示書を発していたのは、これら東国三大名家以外に認められていないが、豊臣秀吉の時代になると、どこの大名も当たり前に同じ様式の軍役を定めるようになっていった。光秀は東国で流行する軍隊編成を畿内でいち早く取り入れようとした。その証跡が「明智光秀家中軍法」なのである。
最後の文章を紹介する。
【意訳】
右のとおり軍役を設定した。まだ改善点があれば何でも指摘せよ。武装と人数が知行に合わないなら修正する。そうすることで愚案の問題点を明らかにする。集まる者たちが外見をきにせず、割れた瓦も同然でいると(原文:瓦礫沈淪)、ただでさえ莫大な人数を預けられているのだから「法度が行き渡っていない」、「武功もない輩」、「国費のムダ」だと見下され、多方で苦労させられよう。粉骨して武功を立てれば、必ずすぐに信長様へ報せるので、家中軍法をこのように定める。
「瓦礫沈淪」の字句は、光秀研究において有名だ。通説はこれを「私光秀は石ころのような身分でいたのを(信長様に)拾われましたが」、または末尾の文章に接続して「だからお前たちの活躍もしっかり報告して出世できるぞ」と言いきかせるための前置きのように説明してきたが、そうではないだろう。
ここにあるテキストは「軍役(動員の制度)」に関する内容である。するとこの「瓦礫沈淪」は、あくまで「軍役」に補足する一文として読むべきだろう。
信長への感謝の言葉ではなく「バラバラになるな」の意
自分の部下たちに読んで従わせる公式の軍制に、私的な情緒や体験を述べるのは不自然だ。光秀は信長から「あなたの手紙の内容は具体的で、目に見えるようにわかりやすい」と誉められたこともあるほど、テキストの扱いが的確である(『増訂織田信長文書の研究』463号)。相手にわかりやすくズバリというタイプなのだ。
ここは「わが軍が、バラバラになった瓦礫みたいになってみっともないのはよろしくない」という文意で読み、あくまで軍制に関する内容を記しているとするのがよいのではないだろうか。
そもそも「瓦礫沈淪」を説かれているのは誰であろう、光秀の家中に入ったばかりの新参者たちである。光秀は天正8年(1580)に信長から丹波一国を与えられた。光秀の兵員はここで爆増した。これら莫大な人数を個別に指導している余裕はない。手早く統制する必要がある。
丹波一国を与えられた光秀は新参兵を統率する必要があった
そこで光秀は、軍制を整え直すにあたり、家中軍法を制定することにしたのだろう。光秀が苦楽を共にした古参の者たちに「俺は若い頃から苦労したけれど、信長さまのおかげでここまで大きくなったよ」というなら感涙されるかもしれないが、征服されてその麾下に入ることになったばかりの丹波の侍たちにすれば、「あー、そうですか、よかったですねー」と呆れる思いがするだけだ。
当時から人心掌握術に定評のあった光秀が、そんな馬鹿なことをするわけがない。甘い昔話をして情緒に訴えるより、「お前たちが石ころみたいにバラバラでいたら、恥ずかしいことになるんだぞ」と厳しく言い聞かせる方が現実的である。しかもこの軍法は、織田家にとって画期的なものだった。
それは光秀がこの軍制について、「愚案」と述べているところにある。これが光秀の独創であることがわかる。しかも家中に疑問があったら遠慮なく意見するよう厳しく言い聞かせていることからもこの軍法ができたばかりの不安定な試作品であることは間違いない。
当時、数千もの兵員の武装と配置を細かく定めて、部隊を再編するのは最先端の軍制であった。そしてこれらは単なる思いつきで創出されたのではなく、実際に有用性が実証されていたからこそ、採用が検討されたと見るべきである。
上杉謙信の強さの理由だった軍編成を光秀は真似した
これは上杉謙信が武田信玄を相手に実用した「車懸りの行」と通称される編成と用兵である。謙信は、遠隔武器による火力集中で敵部隊を混乱させた後、長柄鑓でその動きを拘束して、白兵戦に特化した武者たちを突入させる戦術を愛用していた。
これに立ち向かう信玄は、これと同じ隊形を使ってその戦術に対抗するようになった。こうして、兵種別編成の軍隊が謙信・信玄を中心に拡散していったのである。
天正5年(1577)9月、織田軍は車懸り戦術を担っていた謙信七手組の指揮官が従軍していた上杉軍と接触して、一撃のうちに崩壊させられてしまった。織田家重臣の羽柴秀吉が無断で「帰陣」することになった「手取川合戦」である。
その惨敗を伝え聞いた光秀が、自軍に車懸りが可能な軍制の採用を検討したとして不自然なことではなく、むしろほかに確たる動機を探し出しにくい。
そして、軍法制定から1年が経過して、いよいよこれを実用する機会が訪れた。天正10年(1582)6月2日、光秀が本能寺の変を起こし、信長を殺害して、京都を制圧したのである。光秀はここから天下取りを始動しようと動き出す。
これを受けた信長の遺臣や徳川家康も、主君の仇討ちのためとして、畿内への出馬に向けて動き出す。これを迎撃するには、光秀流車懸りを見せてやるのがいいだろう。
「嘘も武略」と考える光秀だからこそ主君・信長を討った
ところでなぜ光秀は、本能寺の変を起こしたのだろうか?
光秀は「武略」の人であった。
【意訳】
明智光秀は言った。「『仏の嘘を方便、武士の嘘を武略という。土民・百姓はかわいいものだ』というのは名言である」。
(『老人雑話』巻下)
また、フロイスも光秀のことを「裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と述べている。他人の隙を探し出して、不意を喰らわせ、自分の利益を得るのが得意だったのだろう。
信長は策略家というより人任せ運任せで隙だらけ
かたや信長は人任せ運任せのところがあった。冒険的で上手くいけば大成功だが、悪くすると臨機応変すぎて大失敗することも度々あった。
成功例では、少数の兵で大人数の今川軍を相手に戦いを制した桶狭間合戦。また織田軍は鉄炮や布陣地を入念に準備していたが、兵粮が整わず、長期戦は不可能だった。ところが武田勝頼が撤退せずに前に出てくれたおかげで短期決戦を挑むことができ、戦果を得られた長篠合戦。どちらも少し運が悪ければ敗北したかもしれない薄氷の勝利であった。
失敗例では、妹を嫁がせて北近江を委ねていた浅井長政を盲信して越前に攻め入ったがため、窮地に陥った越前討伐と金ヶ崎合戦。足軽に撃ち混じり、最前線に飛び出たため、足に銃弾を受けて負傷した天王寺合戦。これらは信長の油断と過信が大きな痛手を招いたものである。
比較すると、信長は隙だらけで、かたや光秀は隙を見つけたらそこへすかさずつけ入る達人であったと言えるだろう。
本能寺に入った信長も、ここでまさか光秀が裏切るとは想像もしていなかった。もし無防備な信長を今ここで襲ったら、光秀は非難轟々となって味方など得られない。信長はこの合理的判断――光秀ほどの人物ならそんなバカなことはしないという解釈――が無意識のうちにあって、本能寺で眠りについていたのだろう。
無防備な主君を目の前に「勝てる!」だけで決起した
だが、光秀は斎藤道三のように武略に秀でた「計略と策謀の達人」である。丹波では国人たちの裏をかき、これを打ち負かして、一国平定の大業を成し遂げた。
その目と鼻の先で、おいしそうな獲物がぶら下がっている。無防備な主君と京都である。京都は大義名分の源泉となる。下克上の旨みを知った武略の人が手を出さないわけがない。
大軍で京都を制圧すれば、朝廷を容易に操れる。信長の重臣たちは各地方で強敵と対峙しており、すぐには動けない。将軍・足利義昭も反織田勢力を指揮する意欲に燃えており、「将軍様のために働きます」と申し出れば、多数派工作に乗ってくれるに違いない。
かくして光秀は決起した。
光秀は本能寺で信長を殺害した。
だがその後、光秀は確たる大義名分を全く唱えていない。何の理想もなく、ただ勝算の有無だけによって挙兵したためである。
もし何か真意があるなら、信長を討ち果たした後、その犯行声明を堂々と行なったはずである。だが、光秀は変後に書いた西尾光教宛・6月2日付書状で「信長と信忠の悪逆、天下の妨げを討ち果たした」と伝えているぐらいで、特に動機は述べていない。
独自の政治ビジョンがない光秀は孤立していく
また紀伊雑賀衆の土橋重治宛・6月12日付書状でも動機は述べず、将軍への「御馳走」として参戦するよう促している。これを光秀の動機と見る論者もいるが、軍勢の催促として将軍のために参戦しろと言っているに過ぎないだろう。
なぜかと言うと、光秀は6月9日、もともと自身の娘をその息子(忠興)に嫁がせている長岡(細川)藤孝に「今回の挙兵は、忠興たちを取り立てるつもりで行なったことで、他意はありません。50日から100日のうちには近国も落ち着くでしょう。その後は我が子・明智光慶と忠興殿に政権を譲り、何も口出ししないつもりです」などと、理想も大義もない事実を露呈して口説こうとしているからである。
この時すでに光秀は、多数派工作に失敗して孤立していた。中国地方の羽柴秀吉が大軍を連れて引き返しているのを知っており、絶望の最中にあった。
もはや敗北するかもしれない危機的状況で、現実的な未来を語ることはかえって非現実的となる。こういうときは、空手形の利益を見せつけるより、敗れても名が残るほどの高い理想を訴えるべきだが、そのようなことすら思いつかないのは、本当に何の大義もなかったからだろう。
秀吉は光秀の不完全な「車懸りの行」を無効化した
やがて畿内へ入った秀吉は、周辺の城主たちを味方につけると、大軍でもって光秀の軍勢に接近した。
昨年、光秀の軍隊は新型の用兵を使うための「明智光秀家中軍法」を導入していた。だが、この戦法を謙信のように駆使するには入念な錬成が必要で、武田軍と北条軍もこれを模倣したものの、結局不完全な形でしか扱えておらず、謙信ほどの野戦上手にはなれなかった。
むろん光秀の軍隊も訓練が十分ではなかったはずだ。そこへ秀吉が、本来なら合戦を行なわない夕暮れどきであるにも拘らず、一気に攻勢を掛けてきた。その理由は降雨である。車懸りの性能を発揮するには、戦闘開始と同時に銃撃を仕掛ける必要があるのだが、雨の中ではこれがうまく機能しない。秀吉はここを衝いて、光秀の不完全な車懸りを無効化した。
手取川合戦で、隊列を整えた上杉軍が迫る恐怖を体感している秀吉は、光秀がこれと同じ用兵で挑むことを警戒して、どうすれば惟任軍から主導権を奪えるかを熟考していたのだろう。そのひとつが、雨の日の強襲であった。
本能寺の変からわずか11日で光秀の天下は終わった
そして決め手は兵力差であろう。大義名分では、下克上を果たした無敵の人より、信長様の弔い合戦を唱える秀吉方が圧倒的に上である。将軍とすら決別した織田家臣にとって、最高の大義は信長の存在にあった。伝統的権威ではない。人は反・光秀の陣営に集まる。
兵力差は、秀吉側が光秀軍の約2倍。力押しされた光秀は敗北した。
わずかな供廻りと共に逃亡する光秀は、帰城するところを落ち武者狩りに襲われ、首を取られた。6月13日、享年55――。
本能寺の変からわずか11日後のことであった。