「上杉謙信と七尾城」をめぐる4つのポイント
・能登は名門畠山氏に対する下剋上が起き実質、当主不在だった
・畠山の家臣たちは上杉謙信派と織田信長派に分かれた
・上杉謙信は畠山家臣と内通して能登の七尾城に侵攻した
・七尾城を落とした上杉軍は、北上してきた織田軍を撃退した
能登の守護・畠山義慶が急死し、家臣らの傀儡政権に
戦国武将の運命を決めた城。今回は越後の上杉謙信が天下取りを果たすために利用しようとした能登七尾城と、そこを拠点とした人々の運命を見ていこう。
天正4年(1576)4月、能登守護の畠山義慶(義隆とも)が急死した。死因は不明だが、このあと重臣たちが擁立した畠山春王丸(不明〜1577年)はまだ幼年で、政治に意見できる身の上ではない。
このため、有力な老臣たちが政権を運用することになった。かれらは過去にも時の畠山当主を能登から追放したことがあり、守護不在の政体に抵抗はなかった。
状況からみて、義慶の死の背景には、俗にいう「下克上」があったものと推定できる。
重臣たちは自分たちの意見をまとめやすくするため、何も言えない少年を守護にすることで、傀儡政権を打ち立てた。義慶(義隆)の急死について『越登賀三州志』は「畠山義隆毒殺」と記すが、定かではない。
隣国・越後の上杉謙信は織田信長と天下を争っていた
翌年12月、能登七尾城の畠山重臣である遊佐盛光・温井景隆たちは越後の大名・上杉謙信に、加賀の一向一揆と戦うため、「御出馬」を要請した(『歴代古案』)。
ちょうど謙信は長年の宿敵だった甲斐武田家と和睦を進めており、その主戦場を北陸に移そうとしていた。謙信の狙いは、天下人・織田信長との対決である。
信長は美濃・尾張・近江から畿内ばかりでなく、中国と北陸の両方面に勢力を拡大しつつあった。
対決準備を進めるには、信長よりも先んじて北陸を制覇しておく必要があった。
なぜ謙信は信長と天下を争うことを考えたのだろうか。
両者の関係を過去から整理してみよう。
もともと織田信長と上杉謙信は、2点の理由から良好な協力関係にあった。
ひとつは武田対策である。甲斐・信濃両国を領する武田信玄・勝頼は、領土欲も旺盛で、国境を接する信長と謙信の2人からみて、警戒を要する大名であった。武田対策が2人を連携関係へと導いた。
もうひとつは、足利義昭と幕府の支援である。
信長は義昭を将軍に就任させ、足利幕府を復興させた。だが、信玄の策略で、義昭は信長を裏切った。謙信は信長との同盟強化をしたばかりで、信玄との対決姿勢を強めていたため、義昭の側には付かなかった。
やがて信玄が亡くなり、義昭は京都を追放されてしまう。
上杉謙信と信長は、甲斐武田家対策で協力関係にあったが…
謙信と信長は、信玄の跡を継いだ武田勝頼を挟撃しようと話し合って作戦を進めたが、タイミングが合わず、思うような展開を作れなかった。
しかも天正2年(1574)3月、諸国を放浪する義昭が謙信に、「武田勝頼、上杉謙信、大坂本願寺の顕如が妥協して和平を結び、今より幕府秩序を再興するようお願いしたい。もし三者が和して上洛してくれたら諸国は謙信の覚悟に任せたい」と打診してきた(『古状書写』)。
義昭は、三河の徳川家康にも「信長ともめごとが重なってしまい、やむなく京都を退去した。今より勝頼と和睦して天下静謐へのご尽力をお願いしたい」と要請している(『別本史林証文』)。
将軍から直接頼まれたら、さすがに無視することはできない。信長と謙信を結びつけていたふたつの理由がここに失われ、以後、謙信は武田・北条・本願寺との和睦を模索し、本格的に北陸侵攻に着手して、信長との対決準備を整えていくのであった。
謙信は七尾城内に残った「能登衆」と協力しようとした
続けて、上杉謙信と能登守護・畠山家との関係を見てみよう。
謙信は祖父の代より、能登畠山家と親密な関係を続けていた。能登畠山家は、同国七尾城を拠点とする守護大名である。
しかし能登では内紛が続き、天文20年には、「七頭」の重臣連合が七尾城を攻めて、当主・畠山義続を降伏させる事件があった。勝利した七頭は、反対派を粛清すると、敗北した義続と一緒に剃髪して事態を収束させた。
以後、能登では七頭あらため「七人衆」(メンバーは時期によって変動する)による合議制の政治が敷かれていく。
だが、その後も能登国内は落ち着くことなく、謙信が関東で戦っていた時代の永禄9年(1566)、「七人衆」の主要メンバーが守護・畠山義綱とその父を追放し、まだ幼かった義慶を擁立して、遊佐続光・長続連・八代俊盛らが主導権を握ることになった。
繰り返される混乱のなか、「七人衆」は内部抗争もあって四人(温井景隆・遊佐盛光・長綱連、および平喬知)にまで縮小する。ここでは残るかれらを能登衆と呼ぼう。
義慶の息子で幼年の春王丸はまだ元服すらしておらず、謙信が北陸に目を向ける頃には、当主は不在も同然の状態と化していた。近江には、過去に能登衆が追放した畠山義綱が亡命していたが、もちろんこれが呼び戻される様子もない。
それまで謙信は能登衆と連携して、北陸を安定化させようとしていたが、守護不在の不安定な政体、能登衆同士の確執、そして不正確な情報による援軍要請から、この戦略方針に疑問を抱きつつあった。
能登の武将たちは、上杉謙信派と織田信長派に分裂した
たとえば元亀3年(1572)9月には重臣たちに宛てた書状で、「能州当方へ連々被申(能登衆は、上杉家に色々と意見を申し)」てくるが、能登衆からの連絡は事実と異なることが多く、「不審ニ候(おかしいところがある)」と述べている(『上杉家文書』)。不健全な政体が続いているせいか、重要な情報をまともに扱えない能登の者たちは、かなり危ういと不安に思っていたのではなかろうか。
その頃、謙信は長年争い続けていた関東の北条氏政、甲信の武田勝頼と停戦して、上方の信長と対決するつもりでいた。
そうすると、その進路にある能登一国が中途半端な空白地帯であるのは都合が悪い。
一方で信長も、畠山家中が反謙信派になることを願い、能登への介入を考え始めていた。
能登の政体が落ち着いていないのは、謙信にとっても信長にとっても危険であった。謙信と信長の関係が冷えていくのにしたがい、能登衆も二派へと分裂していく。
そのうち七尾城内は遊佐続光・盛光父子ら親上杉派と、長続連をはじめとする親織田派が対立するようになっていたのだ。
そして、前述したように天正3年(1575)12月から翌天正4年(1576)2月にかけて、能登衆の盛光と温井たちは、謙信に一向一揆と戦うための「御出馬」を要請した。
かれらは謙信出馬が果たされるなら「拙者式別して御先手仕り、御馳走申上げ」ますと述べた(『歴代古案』)。
上杉謙信は政情不安定な能登の協力要請に応じることに
謙信は、これに応じるような動きを見せ始めた。
そして同天正4年(1576)4月、能登守護の畠山義慶が急死した。死因は不明だが、このあと重臣たちが擁立した守護の畠山義隆はまだ少年で、自身の意思を積極的に打ち出した形跡がない。傀儡政権を打ち立てたところから見て、暗殺が疑われる。
同年4年7月、謙信は将軍・足利義昭の使いの者たちに上申した。
先月までに加賀一向一揆と「和睦」を遂げた(同年5月には本願寺と「御一和」を果たしていた)ので、いよいよ「北国衆」を召し連れて「織田方分国」に侵攻し、将軍の「御上洛」を支援するつもりです。(『上杉家文書』)
つまり、本願寺や加賀一向一揆と和睦できたので、北陸の者たちを従えて、信長との対決が実行できると宣言したのである。
当然ながら「北国衆」というのには、越後・越中・加賀の衆だけでなく、能登衆も含まれているだろう。謙信は、この作戦を能登衆には明かしていない。分国と化している越後・越中および作戦に参加している加賀一向一揆勢は謙信が命じれば必ず動員に応じる。だが、能登だけはまだ謙信の支配下にない。
ここに謙信が能登を制圧する戦略を決定していたことを確かめられる。
戦国乱世を終わらせるという大義のため能登衆をあざむいた
ここから謙信の戦略が見えてくる。
能登衆が加賀一向一揆と争う上杉軍の「御先手」として遠征している隙に、手薄となった七尾城に進軍するのである。
能登七尾城を制圧して確保した畠山義慶を擁立すれば、能登衆でなおも親織田派の態度を取り続ける者たちを不忠の士として粛清するつもりであっただろう。
史料上明らかなように、謙信は能登を不穏な状態のまま自由にさせる気も、一向一揆と戦う気もなかった。
能登衆との約束を反故にする覚悟が定まっていたのである。
謙信にとって大事なのは、将軍と幕府が機能して、戦国乱世を終わらせることにあった。大義の前に他国を蹂躙する覚悟が定まっていたということである。
かくして謙信は能登に出馬して、諸方面を制圧。七尾城を孤立させたあと、七尾城に攻めかかる。
謙信の「第一次七尾城攻め」である。
だが七尾城はさすがに天下の堅城である。短期間で落とすことができず、能登で年を越すことになった。
「第一次七尾攻め」は失敗、翌年に「第二次七尾攻め」を決行
翌天正5年(1577)3月までに能登平定を果たせなかった謙信は、石動山城の普請と守備を命じて、一旦越後に帰国することにした。
謙信が第一次七尾城攻めを終えて帰国すると、能登畠山家の重臣・長続連の嫡男・綱連は、七尾北西の熊木・富木の要害を攻め落とし、さらには穴水城を囲むなど、勢力回復に動き回った。
能登南方は別の重臣が奪還を進めたようだ。そこへ謙信が再び攻めてくると、綱連は穴水城の囲みを解いて、七尾城に戻って籠城準備に入った。
七尾城はその名の通り七つの大きな尾根(龍尾・虎尾・松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾)を結ぶ形で曲輪が連なる連郭式城郭で、山頂には立派な主郭が防備を固めている。
北の城下には守護名族の格式に相応しく、「千門万戸」の街並みが広がり、市街は短時間で制圧されないよう断崖と柵で守られていた。
相当な備えようだが、実のところ麓から複数伸びる登り口のひとつに主郭への大手道入口がある。
攻め手にすれば、ここを使えば一本道であるから、進路に迷うことはない。逆に言えば守る側もそこを重点的に防衛していれば手堅いわけである。
まるで映画『七人の侍』の防衛体制のようだ。謙信の先手がここを攻めるなら、飛んで火に入る夏の虫となる。
もし上杉軍が複数の番所を越えて、主郭部最大規模の三ノ丸まで辿り着いたら、そこでやっと山頂となる。
天然の要塞のような七尾城は、戦上手の謙信でも攻めあぐねた
その先は二ノ丸と温井屋敷が進路を阻む。その先に本丸があるが、ここから少し東に離れたところに長屋敷がある。
佐伯哲也氏の調査では、厳冬季は2メートルの積雪と日本海からの強風に晒されるため、平常はここに居住しなかったと考えられている。
城攻めをするにあたり、ここが一番の難所となるであろう。
遊佐屋敷の先には大手門、そして西ノ丸屋敷と遊佐屋敷が隣接して、本丸への道筋を塞いでいる。
完全要塞の様相を呈する七尾城だが、やはり問題は守護不在の不安定さにあった。
守護重臣の長続連・綱連父子が率先して指導力を発揮していたところに、謙信が侵攻した。天正6(1578)年閏7月、第二次七尾城攻めがここに始まる。
二度目の籠城戦が続く中、城内で感染症が流行し、幼い春王丸も病で命を落とした。『石川県史』は「畠山氏の血族断絶したる後、事実上七尾の城主は長綱連なり」と評する。もはや、次期傀儡となる当主すら不在と化してしまったのである。
幼い畠山家当主が病死し、謙信はついに七尾城を制する
落城間近の9月15日──。
長一族の記録『長氏家譜』によると、ここで遊佐盛光がほかの重臣たち上杉家への降伏を説いた。すると長綱連は「不義である」と聞く耳を持たなかった。
同調する者も多かったらしく、降伏論を唱えた盛光は萎縮して、反省の姿勢を取り始めた。
盛光は早速にも詫び状を書き、和解のため、綱連の父・続連を屋敷に招く。続連も「息子が言いすぎました」というつもりで、出向いたのだろう。
事件は対面の場で起きた。
盛光の手勢が「お前の息子のせいで恥をかかされたのだ」とばかりに続連を囲み、降伏派となるよう迫ったのだ。ところが続連はこれを拒んで自害した。
こんな事件が、よりにもよって上杉軍の包囲中に起きたのだ。
能登を制し勢いに乗る謙信が信長軍に圧勝した「手取川の戦い」
謙信の軍勢は混乱に乗じ、その日のうちに引き連れていた馬廻および越中手飼でもって七尾城を制圧した。
長氏残党は盛光らに族滅された。綱連、享年38。
盛光に迎え入れられた謙信は「萌黄鈍子の胴肩衣を著し、頭を白布をもってかつら包」の姿で馬上から盛光を見下ろし、「今度の忠節、神妙なり」と声高に告げて、恩賞の沙汰を下したという。
能登を制圧した謙信は、織田軍が加賀を北上しているとの確報を得て、越後先手衆と一向一揆の連合軍を派遣する。
柴田勝家が率いる織田軍は手取川を越えたところで、意気軒昂な上杉軍に肉薄され、恐怖のあまり越えたばかりの川に飛び込んで、南岸に撤退した。上杉軍は織田軍1000人以上を討ち取り、残る者たち多数が手取川に流されて溺死した。
上杉軍の圧勝だった。
翌朝、謙信が現地に到着。これからの決戦をどうするか思案のしどころであったが、なんと織田軍は継戦を諦めて撤退を開始した。その中には戦上手なはずの羽柴秀吉もいた。しかも謙信を倒すつもりで出馬を予定していた信長は、畿内情勢が慌ただしく、北陸に出る余裕を見つけられなかった(乃至政彦『謙信×信長 手取川合戦の真実』PHP新書、2023)。
勝ちすぎた謙信は、信長を討ち取れなかったのだ。
翌年(1578)3月、謙信は関東への大遠征計画を立てる。関東を攻めたあと、返す刀で信長を滅ぼす計画を立てていたが、謙信は強い腹痛に倒れ、3月13日に帰らぬ人となってしまった。
「国破れて山河あり」を体現した畠山遺臣の長一族
余談ながら、この籠城戦中、七尾城内から信長に援軍を依頼に出向く僧侶の姿があった。
綱連の弟・孝恩寺宗顓──のちの長連龍である。
宗顓は近江安土城まで急いだが、信長と接触する前、石川郡倉部浜近辺に同族の首が並んで晒されているのを見つけた。
取り急ぎ手取川南岸に布陣する織田軍のもとへ赴き、自身の保護と援軍を求めたあと、両軍の撤退を待ってから家族の首を回収したようである。
上杉軍から能登を奪取した織田信長は、天正10年(1582)本能寺の変に横死する。能登は信長家臣だった前田利家父子が統治することになった。
前田家臣となっていた宗顓は還俗して長連龍の名乗りに改め、織田家・豊臣家が滅びたあとの元和5(1619)年まで数々の武功を立てた。
結果、3万3000石を領する大名級の重臣となり、享年74までの余命をまっとうした。能登畠山家の歴史の多くは、この長一族が系譜の形で書き残すことになるが、戦国当時の史料と見比べて矛盾するところが少なからずある。
自分たちが加担した野心的な下克上を、決裂した遊佐一族らに押し付けたのかもしれない。
謙信と信長の対決は、多くの人たちの歴史を狂わせた。