義隆の養子である後継者が、船の転覆で19歳にして死亡
養嗣子・恒持の船には多数の人が集まった。『大内義隆記』には、「一条殿若君(大内恒持)が「小舟」に乗ったところ、「余多の人」が乗り込んできたため、転覆して亡くなった」と伝えられている。
この群がった人々が大内の兵たちであったかはわからないが、「二宮俊実覚書」(『毛利家文書』561号)には「御果候」とあり、『棚守房顕覚書』は「介殿(大内恒持)[以下3名略]ノ四人討死ナリ」と明記している。
これらの史料から推測されるように、復讐に燃える尼子兵たちが船に殺到したのだろう。

知略に長けた晴久は籠城で勝利するが、その城で生涯を終えた
月山富田城の戦いは、大軍を誇る大内義隆と知略に長けた尼子晴久が激突した一大舞台であった。
義隆は入念な準備と威圧で勝利を確信したはずが、兵糧の途絶に足元をすくわれ、晴久は限られた手札から奇策を繰り出し、逆転の糸口をつかんだ。
しかし、この戦いが両者の命運を決定づけたと果たして言えるだろうか。
やがて訪れる大内家の没落と尼子家の滅亡を前に、彼らがこの城で賭けたものは、何だったのか。われわれに残された問いは多い。
主要参考文献
福尾猛市郎『大内義隆』吉川弘文館、1989年
長谷川博史「遠用物所収『覚書』にみる史料の可能性」/山口県編『山口県史の窓 通史編中世』山口県、2012年
藤井崇『大内義隆』ミネルヴァ書房、2016年
山田貴司「大内義隆の「雲州敗軍」とその影響」/黒嶋敏編『戦国合戦〈大敗〉の歴史学』山川出版社、2019年
乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023年
香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐」