大内義隆は月山富田城を見下ろせる山に本陣を置く
天文12年(1543)3月、いよいよ大内義隆は月山富田城西方まで足を踏み入れ、京羅木山に本陣を置いた。
その山頂点標高は、南東に位置する月山富田城の標高より遥かに高く、その様子を一望することができた。
大内軍は月山富田城への本格的な攻城戦を仕掛ける。
3月14日は菅谷と蓮池畷の虎口(山中御殿跡)まで兵を進ませ、鎗戦を展開した。だが、それ以上の侵入は阻止された。尼子方は消極策にも拘らず明確な仲間割れも起こさず、ここまでよく耐えていた。
次は4月12日に塩谷口(塩谷口搦手門)で激戦があった。ここでは毛利元就ですら、尼子軍に押されて敗退させられた。尼子の守りは堅固そのものだった。力押しはまたしても成果を上げられなかった。

大内も毛利も尼子軍を打ち破れず、兵糧の輸送を絶たれた
尼子晴久のここまでの消極策は打つ手が何もなかったからだろうか。多分、そうではない。むしろ、今のこの時を待っていた。
この戦いはこの頃から空気感が大きく変わっていくのだが、一次史料には書かれていない。『中国治乱記』などの軍記類によると、このとき尼子方は、各所の通路を塞いで糧道を断つ作戦を実行し、「大内方(を)難儀」にさせたことに触れている。兵糧の輸送を途絶えさせたのである。これは事実であるだろう。
大内軍は、ここまでほとんど無制限に人数を膨れ上がらせたため、現地調達(住民や商人からの買取り)や略奪では賄えなくなってきた。
義隆もこんな事態は予想できていなかったのでないか。そもそも当時の遠征は現地での買取りが常識であった。軍勢が前進すると、先々で市場が形成される。なぜなら集落や寺社が「禁制」を侵攻軍に申し出て、宿舎や物資を提供するからである。もちろん料金は将士が支払う。プロセスとしては、「①大軍が迫るという情報が現地に入る→②現地の裕福な寺社や集落が大軍に金を出して営業をかける→③現地が潤う」というものだ(乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023)。
このため、資金が豊かな大内軍は何があっても兵糧に困ることなどないと踏んでいたのではなかろうか。
ところが、あまりに人数が多すぎると、現地の受け入れ体勢が追いつかなくなった。キャパオーバーである。こうして大内軍はやむなく後方から輸送しなければならなくなったのだ。