3代将軍家光の「待った」に政宗が放ったひと言
すでに大平の世を迎えてのちのこと、3代将軍徳川家光と伊達政宗は固い信頼関係で結ばれていたといわれる。ある日、家光に招かれ、将棋の相手をしていた政宗は、家光にたびたび「待った」をされると、それでは「城ノ後カラ這入ルゾ這入ルゾ」と口にした。将棋にかこつけて、江戸城の後ろに弱点があることを示唆したというのだ。
この逸話は江戸後期に肥前平戸藩主、松浦清(静山)が記した随筆集『甲子夜話』に出てくる。ここに書かれた話は聞き書き、実見談、風聞など多岐におよび、この逸話も史実かどうかわからない。あるいは将棋の相手は、2代将軍秀忠だったのかもしれない。
というのも伊達政宗は元和6年(1620)、秀忠に命じられて神田山を掘削する工事を開始している。現在、JR御茶ノ水駅は地表より低い場所に設置され、その前に深い渓谷のような断崖があり、下を神田川が流れている。じつは、あの川は神田山を掘削して通された人工の堀で、政宗を皮切りに伊達家が工事を担当したため、仙台堀とか伊達堀とも呼ばれる。
いずれにせよ、「城ノ後カラ這入ルゾ」という政宗の言葉は、この武将がそれ以前から、ある目的をもって江戸城の弱点を見通していた、ということを示しているのではないだろうか。
目的のためには実の父も殺す
永禄10年(1567)8月に生まれた政宗が家督を継いだのは、本能寺の変から2年後の天正12年(1584)10月、数え18歳(満17歳)のときで、以後、急激に勢力を拡大した。その際に採った戦術は、現代の感覚からすると、あまりに残酷で衝撃的なものが多い。
たとえば、家督を継いで1年に満たない天正13年(1585)8月、小浜城(福島県二本松市)の城主、大内定綱と対立すると、その支城の小手森城(二本松市)を攻め、8000丁の鉄砲を撃ち放って、城中の者を老若男女の別なく皆殺しにした。この「撫で斬り」は見せしめだったといわれ、実際、近隣諸国は肝を冷やしたに違いない。
続いて、大内定綱と組んでいた二本松城(二本松市)の城主、畠山義継が和議を申し出たのちのこと。和議を取りなした政宗の父、輝宗が義継に拉致されたのだが、政宗はすぐに義継を追うと、義継一行を銃撃して皆殺しにした。父の輝宗ももろともに、である。

これについては、輝宗が「自分に構わず敵を撃て」と命じたとも、邪魔な父を片づけたのだともいわれるが、いずれにせよ、目的のためにはどんな残酷な手もいとわない、という政宗の冷徹な合理主義が貫かれていると思われる。